Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

前主張の意義

インドの論書においては、パターンとして、まず、敵の説(前主張)を提示してから、次に、それに対する論難(後主張)が提示され、自説が示されます。

前主張(P)と後主張(U)です。

この前主張について、インドの議論のスタイルに慣れない人には誤解があるかもしれません。

誤解というのは、つまりPを提示する際に、U側は、故意にねじ曲げて提示している、あるいは、わざと批判しやすいように提示している、Pの本意とは違う形で提示している、という捉え方です。

現代にあるような一部の稚拙な論争ではそうかもしれません。

テレビで見るような論戦では、相手の攻撃しやすいところだけを取り上げて、しかも少し曲げて、それで、相手を打ち負かすというのがテクニックなのかもしれません。

しかし、インドの論書の場合、わたしが読んだ限り、そのような印象を受けることはまれです。

まず、的確に相手の主張を捉えています。

そのうえで、核心を突いた批判をします。

まさに、哲学的な、真に建設的な議論が成立しているわけです。

相手の主張を正しく受け止めて、それでいながら、その主張が成立しないことを、一般的な形で(つまり両者が認める論拠や喩例という基盤に立って)突き崩そうとしています。

例えば哲学議論において重要な問題として、Pの定義が狭すぎるavyaapti、或いは、広すぎるativyaapti、というのがあります。

「AはBである。これは100%正しい」というPの主張に対しては、「いやいや、こういう反例がある」というケースを一つ示せば、相手の主張は崩れてしまいます。Pが用いる論証における理由(論証因)の不定anaikaantika・逸脱vyabhicaaraを示すわけです。

相手の主張を正しく受け止めながら、なおかつ、その相手の論理に従って、それが成り立たないことを示すのは、インド人が得意とするところです。「あなたの論証では、むしろ、逆のことを証明することになる」という矛盾因viruddhahetuの指摘です。

論争において、もしUがPの主張を正しく受け止めていないなら、すなわち、Pの前主張を正しく提示していないなら、そもそも、Pに対する適切な論難とはならないはずですから、Pの側からは「そんなことは我々は主張していないから、Uの論難は的外れだ」と言い返されて、論争は終わってしまいます。

的外れなことを言ったUのほうが、むしろ、負けとなってしまいます。

インドの論争において、Pの主張の核心を正しく捉えて反論することは重要なのです。

歴史上残ってきた(つまり後代の人々に人気を博してきた)批判というのは、このように、Pの主張をUが正しく捉えた上で、本質的な批判を行っているものばかりです。

非核心的な的外れ、あるいは、その場しのぎの単なる揚げ足取りの批判というのは、そのひと一代限りで終わってしまって、その後、引き継がれることはありません。

何が言いたいかというと、前主張に書かれた内容は、Pの説の核心を再建するのに重要な手がかりとなるということです。

P説が同時代の人、少し後の人によってどのように理解されてきたのか、どのような文脈で捉えられていたのかというのを知るのに、前主張における内容というのは、極めて重要な資料なのです。

定説Xだけを知るのは簡単です。

しかし、我々は、或る説Xを正しく理解するにあたっては、その敵の側Yによってどのように記述されているかをも正しく理解する必要があるのです。

敵の瞳に映った自分の姿をよく見てみることで、客観的な評価がより確実なものとなるのです。

Yに書かれたXの主張は前主張だから真剣に取り上げるに値しないという態度、つまり、Xが自説として書いた後主張だけを見て事足れりとする態度は、サンスクリット論書の取り組み方としては、極めて浅薄・幼稚な見方です。

私の師のヴェンカタラーマン教授がしばしば強調されていたように、前主張を正しく捉えてこそ、そして、曲解して弱くするどころかむしろ相手の主張を強くするくらいに深く正しく捉えてこそ、真のインド哲学者と言えるでしょう。

歴史に残ってきたインドの偉大な哲学者というのは、みな、そのような真に建設的な議論応酬をしています。

そのおかげで我々は、貴重な断片資料を手にしたりするわけです。

例えば仏教徒のシャーンタラクシタは、敵のクマーリラの失われた詩節を多数保存してくれています。

まず前主張においてクマーリラの詩節を引いて、それから、それを受けた批判を行っています。

シャーンタラクシタに対する注釈者であるカマラシーラは、クマーリラの詩節に対しても、すぐれた注釈を残してくれています。

もちろんカマラシーラは、シャーンタラクシタに対して注釈しているわけですが、結果的に、クマーリラの詩節に対して注釈を残したことになるわけです。

その内容を読むと、ミーマーンサー学者より勝れたミーマーンサー学者だと評価できます。

後代のミーマーンサー学者より、よっぽど深くミーマーンサーを理解して、それを的確に表現しています。

ここには、的確に相手の説を理解しようという姿勢がうかがえます。

その上で、批判を行っているのです。

ミーマーンサー文献だけを読んでミーマーンサーを知ったつもりになるならば、また、仏教文献だけを読んで仏教を知ったつもりになるならば、カマラシーラからはその浅薄さを笑われることでしょう。

自像の成立は他者の目を本質的に必要とするものです。
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  1. 2015/02/23(月) 01:34:30|
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