Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

真如の知

我々は、「自分が対象を見ている」と思っています。

唯識の考えによれば、これは間違いです。

「自分が対象を見ている」というのは、唯識の用語で言うと、把握主体が被把握対象を捉えている、という構造になります。

能取・所取の二元というものです。つまり、主客の対立です。

これは存在しないというのです。

非有性<-------------確定
  |
[客←主]

主客の二元が非有であることを確定することが、でっちあげられたものについてよく知ることです。

つまり、遍計所執性について知悉するということです。

しかし、これだけでは「無い」という認識だけで、一方に偏ってしまいます。

さらに、「現れてきている」という側面を捉える必要があります。

すなわち、心が、非有である主客の二元性をもって現れてきているという構造を捉える必要があります。

これが、他に依存しているもの(現れ)についてよく知ることです。

つまり、依他起性について知悉することです。

非有性
   |
[客←主]-----------現れ
         |
         心

心が、実際には非有である主客の二元の形をとって現れてきているという、現れ出しの側面を捉えるのが、依他起性について知悉することです。

以上、でっちあげられたものと他依存のものについてよく知ることが、いわゆる円成実性の知にあたります

つまり、我々の認識の仕組みについてよく知ることです。

非実のでっちあげという構造を正しく捉えればいいわけです。

ありのままに捉えること、それが、真如の知です。

つまり、この世の全ては単に認識させられているものにすぎないという唯識の気付きです。

遍計所執性・依他起性・円成実性の三性説は漢字が難しいので敷居が高いのですが、サンスクリットで読むと、実に単純なことしか言っていません。

つまり、実際には存在しないでっち上げられたものが現れてきているということであり、心がそのようなものとして現れてきているということです。だから、「すべては認識させられているだけ」ということになるのです。

「二空が、即、唯識ぞ」などと言われると、論理の飛躍に恐れをなしますが、なんのことはない、実に単純なことでした。

単純すぎて有り難みがないので、有り難みを増すためには、難しい漢字を使った方がいいかもしれません。

また、自分でも言ってることがよく分からないときは、難しい漢字で武装した方が良いでしょう。
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  1. 2015/02/24(火) 09:29:48|
  2. 未分類

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