Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

犢子部

無我を説く善逝の系譜に連なりながらも、五蘊と同じでもなく別でもない我(アートマン)を、プドガラの名の下に説くのが、犢子部です。


TS 336: いっぽう、或る者達は、善逝の子孫を自認するにもかかわらず、プドガラと称して、[五蘊と]同じでもなく別でもないアートマンを説く。



そもそもアートマンとは何でしょうか。

1.善・悪の行為の主体
2.行為の結果の享受主体
3.前の五蘊を捨てて、次の五蘊を取る輪廻の主体

このアートマンの定義的特質の全てをプドガラは満たしています。

結局の所、犢子部は、実質的にアートマンに相当するものを「プドガラ」と呼んでいるだけです。

つまり、仏教徒であるにもかかわらず、アートマンを説いていることになるわけです。

したがって、無我の教えに反する論者だと、シャーンタラクシタは批判しているわけです。


337. 【犢子部】プドガラは、五蘊と別ではない。外道の見解となってしまうので。非別でもない。複数などとなってしまうので。それゆえ、[五蘊と別とも非別とも]言い表されえないというのが正しい。



プドガラが五蘊と別であるならば、五蘊とは別なものとして常住なアートマンを立てる外道の説と同じになってしまいます。

かといって、五蘊と同じならば、五蘊が多数であるように、プドガラも多数となってしまいます。

そうすると、プドガラは一者ではないということになってしまいます。

これでは、犢子部が認めたい常住な一者――行為主体・享受主体・輪廻主体たりうるもの――とはならなくなってしまいます。

それゆえ、犢子部は、五蘊と別でも非別でもないものとしてプドガラなる一者を立てます。

それは五蘊と別とも別でないとも言い表され得ないものです。

五蘊と別非別断定不可能なもの、それがプドガラです。




これに対するシャーンタラクシタの回答はシンプルです。

1.実在であれば、それは、五蘊と別か非別かいずれかである。(P→Q)
2.いま、プドガラは、五蘊と別でも非別でもない。(¬Q)
   ――――――――――――――――――
3.それゆえ、プドガラは、実在ではない。(¬P)

つまり、能遍の非知覚という論証因により、プドガラは、勝義としては存在しないということが導かれます。

なんとも論理的で杓子定規な回答です。
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  1. 2015/02/25(水) 00:43:53|
  2. 未分類

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