Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

清弁と月称の縁起解釈

『明句論』冒頭,月称は,『中論』の冒頭偈に註釈する中で,清弁の縁起解釈を批判します.

縁起とは,月称にとっては,諸存在が因・縁に依拠して生じることです.

いっぽう清弁にとって,最終的に「縁起」という言葉は,語源分析不可能な語,すなわち,慣用語として理解されます.

すなわち,pratītya+samutpādaと切って理解されるべきものではなく,全体でまとめて,此縁性idaṃpratyayatāと同じと見なされています.

すなわち,縁起とは,清弁によれば,「AがあるとBが生じる」「Aが生起することでBが生起する」ということと同じなのであって,「~毎に到達してから生起する」「~毎に滅すべきものが生起する」というような語源分析によって理解されるべきものではないのです.

月称は,語源分析可能な語として「縁起」を理解し,清弁の理解を批判します.

しかし,世親や陳那の冷めた因果観を経た目で見れば,清弁の言いたいこともよく分かります.

月称にしても,結局の所,pratītya=apekṣyaとすることで問題解決を図っています.

清弁がなぜ「縁起」を語源分析不可能とし,ひとっ飛びに「此縁性」とイコールと言ったのか,その背景にある因果観の変化に注意することは重要でしょう.

そして,同じ問題意識は,月称のpratītya=apekṣyaという解決法にも見られると私は考えています.

月称の批判にばかり気が取られて,彼の言うことばかりを素直に聞いていると,批判された清弁の意図を見逃すことになりかねません.

月称よりも遙かに偉大な論師として有名人だった清弁,彼の発言の一つ一つには,もっと注意を向ける必要があるでしょう.

月称は清弁の記述を捉えて「清弁は前主張の紹介の仕方が下手っぴー」(清弁による前主張の内容理解には誤解がある)と言っています.

原文に即して言うと「先生さんには,再言における下手さがある」(anuvāda-akauśalam ācāryasya),つまり,紹介の仕方が不味い,と言うのです.

わざわざ悪口を言うのに「阿闍梨」という語を付け足しているのも,なんだか皮肉に聞こえてきます.




むかし,江島先生はよく「チャンドラキールティは悪文家だ」というようなことを仰っていました.(本郷三丁目の「庄屋」における談話)

しかし,アンが校訂してくれたこの立派な校訂本を読む限り,そのような印象を私は全く受けません.

普通のサンスクリットです.ダルマキールティのPVSVの青臭い先走った文章に比べると,全然いいです.

悪文との印象は,単に,校訂が悪くて,どうしても読めない箇所があったからでしょう.

極めて慎重かつ精確に作られた校訂本を手にすることができる我々はラッキーということです.

アンに感謝.




長年の作業の途中でローマナイズ原稿からデーヴァナーガリー原稿にコンバートしたせいでしょうか,全ての単語がローマナイズ風に切り離されて,それがデーヴァナーガリーで書かれると,かなり気色悪いです.例えば,

तत्प्राप्तिदर्शनाद् इत्य् एतद् अपि न युक्तम्

のような切り離し方です.

तत्प्राप्तिदर्शनादित्येतदपि न युक्तम्

というのが,普通のエディションによくある繋げ方です.

もちろん,校訂の異読apparatusの都合上,切り離した方が異読を出しやすいというのは分かります.

しかし,普段見慣れた形からの逸脱が違和感を残すのは否定できません.

ドゥ・ラ・ヴァレ・プサンの校訂本は,その点ではやはり「美しい」と思います.

校訂本作成においては,やはり,見た目の美しさというのも重要な要素だと私は考えます.

もちろん,十人十色,単に趣味・好みの問題です.
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  1. 2015/06/19(金) 07:55:36|
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