Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

西日本印仏研

西日本印仏研のいいところといえば,あらかじめ原稿が用意されていることです.

もちろん,ぎりぎりまで完成していない場合もあるので,人によりけりですが,今回は,全ての原稿が事前に参加者に配布されています.

それぞれ,博論レヴェルともなると,事前の予習なしに理解するのは難しいものばかりです.

ダルシャナの場合,特に,内容が込み入っているので,25分の発表のその場で理解するのは困難です.

したがって,事前予習の時間が与えられているのは助かります.

中須賀さんのものは,彼女がずっと追いかけているadhyavasaayaやsamaaropavyavacchedaの問題.

今回はカルナカゴーミンの解釈に関してです.

焦点が絞られているので,問題がはっきり見えてきます.

壺を(無分別に)知覚した後に,「壺だ」という知覚判断,つまり,有分別知が生じてきますが,この有分別知の働きがアポーハ的には何なのか,という問題です.何かを排除しているのか,という問題です.問題の詩節に関しては,彼女が既に前稿でも簡単に記していたように,注釈者によって解釈が微妙に異なります.

したがって,誰がどのような解釈を提示しているのか,そして,その背景にある意図や動機は何なのかを細かく見ていく必要があります.

カルナカゴーミンだけに注目する研究というのは,なかなかなかったでしょうから,貴重です.

単にシャーキャブッディの受け売りでないカルナカゴーミン独自の事情というものが透けて見えてきそうです.




石村さんの論考は,やはり彼がずっとここ最近追いかけている「既知性」の問題です.それのスチャリタによる解釈の問題.

クマーリラ研究は,クマーリラ自体の研究も全然これからですが,ましていわんや註釈者の研究となると,まだまだ手つかずの領域が果てしなく広がっている感があります.

石村氏も,出版本によりながらも,写本もチェックしてカーシカー註に取り組んでいます.

中須賀さんのカルナカゴーミン研究もそうですが,石村さんの場合も,スチャリタという岸壁に素手で登らないと行けません.

何の助けもなしに独力で,サンスクリットの崖をよじのぼる力がないと無理な作業です.

素手で(つまり,先行訳や註釈やチベット訳の助けを借りることなく)サンスクリットを読みこなす力がないと,こうした文献には取り組めません.

結局,サンスクリット読解の実力が問われることになります.

しかも,ちょいちょい,文献批判テクストクリティークに関わる問題が出てきますので,写本をチェックしながら進める必要があります.

素手で読んでいてどうしても読めない箇所というのは,やはり,数カ所はでてくるものです.

そんなとき,問題解決をする能力・経験が問われることになります.

事前配布の資料において,石村さんは,分からないところは分からないものとして明示してくれていますので,何が問題なのか,読者にも見えやすくなっています.

難しい所というのは,誰にとっても同じです.初心者にとって難しいものは,往々にして上級者にとっても難しい.

そこに問題が潜んでいます.

したがって,何が問題なのかを明示することは,読者のことを考えた場合にも,非常に重要なことです.

誠実さということが,文献を研究する場合も必要になります.

で,肝心の中身ですが,要するに,既知性というのは,壺を(いろいろな方法で)認識したときに,その壺の上に生じる〈既知性〉のことです.ミーマーンサー学派では,認識を行為と考え,既知性を,その行為の結果と考えます.つまり,認識するという作用を通じて,壺の上に既知性が生じると考えるわけです.この認識作用・認識行為そのものは非知覚対象であって,anyathaanupapattiによって事後的に想定されるものです.つまり,この壺が知られたという既知性が,認識作用がなければありえないという「他様では説明がつかないこと」によって,認識作用があったはずだと後から想定されるわけです.

今回石村さんが取り上げる箇所は,スチャリタによる説明の中でも,特に,「他の仕方では既知性がありえない」という箇所の説明部分です.

つまり,既知性が生じてくる過程として,いろいろな他の仕方を可能性として提示して,それをいちいち潰すことで,anyathaa na upapadyateということを確認するわけです.
つまり,他の可能性をいちいち潰していくこと,がスチャリタが行うメインの作業となっています.
いかにも註釈者らしい仕事です.

認識行為以外には既知性の原因はありえない,ということを言うために,それ以外の可能性をいちいち否定するわけです.




タイトルだけ見た時には何をやるのかちょっと予想がつきませんでしたが,意外に直球勝負だったのが志田さんの原稿.

彼がずっと取り組んでいるスチャリタの音声常住論の中で出てくる問題に,アビダルマの択滅が関わってくるという話です.

無為なるものは,アビダルマにおいて,例外的に常住です.つまり,諸行無常と言われるように,有為は無常ですが,逆に言えば,無為は無常ではないわけです.常住ということになります.

したがって,有部アビダルマで言う三種の無為のうちの,例えば,択滅pratisa.mkhyaanirodhaも常住ということになります.

音声常住論では「意志的努力の直後にあるものは無常だ」という論証が問題となります.

ここで,クマーリラは,「意志的努力の直後にあるからといって無常とは限らない」という逸脱例として,pratisa.mkhyaanirodhaを持ち出してきます.

ここでのクマーリラの「択滅」解釈は,若干,歪曲が働いているようです.意図的なのか,あるいは無知なのか,いずれなのかは判然としません.

志田さんは,最終的にこのクマーリラの解釈を取り上げます.

スチャリタや周辺から遡行していく系の研究です.

いろいろなところに問題が波及しているので,結構,面白い問題です.

シャーンタラクシタとカマラシーラも取り上げています.

クマーリラの曲解なのか,単なる誤解なのか,面白い問題です.

果たしてクマーリラは,どの程度精確にアビダルマを知っていたのでしょうか?
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  1. 2015/07/26(日) 08:58:01|
  2. 未分類

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