Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

心と虚構物の非別性もまた虚構である

無いものが現れている――これが唯識の見方です.

重要なのは,現れそのものは現実として因果上にあるということです.

これは嘘ではありません.

嘘なのは,把握主体・把握対象という二元にまとめられる二元世界です.

無いものの現れ,それが二元という嘘を本当は欠いていること――これが不変の真実です.

ただし,唯識では,「二元の無」という否定に終わるのではなく,「二元の無が有る」という肯定を強調します.

「二元の無」に終始し,さらには,現れの側までも否定してしまうと,中観的な見方に堕してしまうと瑜伽行派は怖れます.

否定辞をparyudaasaと取って,「非二元」の結果として浮かび上がってきた「空の有」を掬い取り,「二元を欠いていることは有る」とする――これが最高の真実です.

現れてきている無いもの,それは虚偽であり増益(ぞうやく)されたものであり,要するに,全くのでっち上げの虚構物です.

無いものを有るとすること――それが増益(ぞうやく)です.(ちなみに東芝の増益(ぞうえき)の実態は増益(ぞうやく)でした.)

では,この「無いもの」の正体は何なのでしょうか?

それは,潜在印象に惑乱せられた心が作り上げたものに過ぎません.

また,それを,心と不二の内的な心像,内的形象と捉えるのは(無相唯識から見れば)間違いです.

心と同一としてしまうと,それは,因果上にあるものとして,「他に拠ってあるもの」となってしまいます.

虚構物は心と同一ではありません.

かといって,心を離れた全く別のものとしてどこか外に存在しているわけでもありません.

心と虚構物との関係もまた,虚偽の同一性・非別性と表現されるべきものなのです.

したがって,心と虚構物との同一性・非別性を真実のものと考える無相唯識中観の見解は(ラトナーカラシャーンティに言わせれば)間違いということになります.




その昔,マンダナ・ミシュラは,アートマンと無明の関係を「断定不可能」と喝破しました.

無明は,アートマンの内にあるわけでも外にあるわけでもありません.

心の実在だけを認める唯識も,アートマンの実在だけを認めるアドヴァイタと同じ問題を抱えています.

その解決方法が類似してくるのは必然でしょう.
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  1. 2015/08/08(土) 10:25:20|
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