Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

マンダナの難しさ

「Aである,Bだから.」という構文が,サンスクリット論書には多く見られます.

これだけだと迷うことはないのですが,これを拡張すると,文章解釈に迷いが生じることになります.

「Aである,BだからCだから」という場合,

1.A←B←C (AであるのはBだから.BであるのはCだから.)
2.A←(B→C) (Aである.Bである以上Cだから.)

あるいは,ひょっとすると,caが消えている場合もあるかもしれません.(そしてそれは写本の問題かもしれません.)その場合には,

3. A←(B+C) (Aである.BかつCだから.)

という構造も考える必要があります.

また,yadi A tadaa Bなら「もしAならその場合B」という解釈で迷いようはありません.

しかし,A cet B Cという文章の場合,cet「もし」がどこまで係っているのか迷うことになります.

1. if A, then B. C ... (もしAならBである.Cは……)
2. if A is B, then C (もしAがBであるなら,Cである.)

という可能性です.

サンスクリット写本には句読点が基本的にはないので,校訂者が適宜打つ必要があります.

漢文に自分で句読点を打つのと似た作業が必要になります.

良い校訂の場合,解釈を前提とした句読点(ダンダやハーフダンダ,あるいは,ピリオドやコンマ,あるいは,サンディ解消によるスペース)が必要となります.

マンダナの難しさは,この構文解釈の難しさにかかるところが大きいと感じます.

ほかにも,前主張と後主張が激しく入れ替わるために,どっちがどっちなのか,文脈を丁寧に追わないと形だけからは分からないという問題があります.




クップスワーミ・シャーストリーによるBrahmasiddhi校訂は非常に優れたものです.

その理由の一つは,構文解釈を踏まえて校訂者が考えた句分けを親切に残してくれている点にあります.

写本からテクストを起こすだけが校訂作業だと思っている間は,校訂の醍醐味は分からないでしょう.

「この文章がどうしても分からない」という時は,ダンダの位置を疑ってみると解決することがよくあります.

校訂テクストというのは,「人為のもの」なので,どうしてもそこに後からの間違いが入り込むわけです.

信頼できる校訂者の校訂の場合,あまり疑ってかかることなくスラスラと読めるのでストレスフリーです.(そのような校訂者は,註釈も読み込んで,それに沿って句読点を打ってくれていたりします.)

いっぽう,テキトーな校訂の場合,いちいち疑ってかかる必要があるので,読むのに苦労することになります.

ジグザグあれこれの可能性を考えながら進むことになります.

オフロードを行くのも時には楽しいですが,やはり,舗装された道を通るのが楽ちんです.




論文に引かれているサンスクリット原文を見ると,その論文の著者の理解がどの程度のものか,よく分かります.

理解している人はちゃんと句分けしてくれています.

そうでない人は,校訂本そのままに載せて「人任せ」あるいは「人のせい」にします.

また往々にして,校訂本を写し間違ったりして,新たな間違いを付加します.

あるいは,校訂本の間違いをsicも付けずにそのままに残したりしています.

あるいは,デーヴァナーガリー文字の校訂本をローマナイズして表記する時に,学界標準のスペース空けを全く無視した表記をしたりします.

「読者に分かるように親切に」というのは,日本語の地の文だけでなく,サンスクリット原典引用についても言えるわけです.
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  1. 2015/08/10(月) 08:10:13|
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