Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

有形象認識論雑感

分かりやすいので経量部説に立って説明します.

まず,壺の形象Xがあります.

その壺によって,認識の中に似た形象X’が投げ込まれます.

この形象X’を認識が把握します.

実際には,形象X’を持った認識が生じる,ということです.

ここで問題なのは,形象X'を認識が捉える,というような言い方をしてしまうと無現連鎖に陥ってしまうことです.

というのも,その形象X’を捉えるために,認識内に更に別の形象X''が必要となるからです.

というのも,有形象認識論が言っているのは,「対象を捉えるというのは,その対象によって引き起こされて,しかも,その対象の形象Xと似た認識内の形象X’を捉えることだ」ということだったからです.

したがって,形象X'を捉えるためにも,それと似た形象’’が必要になる,ということになります.

それを避けるためには,「捉える」というような動的な捉え方をあらためる必要があります.

結局,「形象X’を持った認識が生じる」というような言い方に落ち着くことになります.

ここで「持った」というのは,実際には同一同体の関係にあります.

この同一性の関係がゆえに,vyavasthaapaka-vyavasthaapyaの関係がなりたつというのが,仏教論理学者達の見解です.

すなわち,認識が特定の対象を志向しているという認識対象の特定性の問題です.

無形象認識論のように,「外界対象の形象Xを持った認識が生じる」という場合には,内と外で距離があるから,特定の形象を捉えることに難が生じる,というのです.

無形象認識論:  X→認識

有形象認識論:  X≒ X'
           |
           認識

しかし,無形象認識論の側から見れば,X'と認識の関係を認めるくらいなら,最初から,外界対象の形象Xと認識の間に関係があると言った方がモデルはシンプルではないか,と言いたくなります.

センスデータに相当するX’にどれくらいの情報量が詰め込まれているか,という問題になると,結局,citra-advaitaとかの理論に見られるように,様々な困難を抱えることになります.

なら,無形象認識論のほうが遙かに楽でしょう.

月を写す水面.

そこにゆがみがあれば映像にゆがみも生じるでしょう.

その反射像自体の存在論的な位置づけをどうみなすかが認識論の立場の違いを生み出します.

水面の上の反射像それ自体を真実(依他起=因果的に生じてきた有)とみなすことになる形象真実論的な有形象認識論は,様々な困難を抱えることになるはずです.

唯識の形象虚偽論,あるいは,もっと単純に外界実在論の無形象認識論に立つほうが楽でしょう.
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  1. 2015/11/27(金) 19:10:20|
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