Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

evaやらapiやら

大意を取るのに,まず最初はevaやapiは省いて考えます.

しかし,大意を取った後は,細かいニュアンスを考える段階に入ります.

その際,evaやapiが持つニュアンスの違いというのは非常に大事になってきます.

「だけ」によって作者は何を排除しようとしたのだろうか,「も」によって何を取り込もうとしたのだろうか―――このように読み手は悩むことになります.

このような作業に1時間も2時間も費やすのは,好事家の現代の文献学者だけだろう,というのはあたりません.

昔の註釈者達も,註釈先のテクストに書いてあるevaやapiについて,同じように頭を悩ましていました.

そして,その微妙なニュアンスを捉えきるのは,彼等にとっても決して容易なことではありませんでした.

それらの解釈について,知らぬ顔ですっ飛ばす註釈者もいれば,真摯に取り組んで一言コメントする人もいます.

そして,そのコメントの内容は,註釈者間で異なっていたりします.

つまり,伝統的な註釈者達にとっても,ニュアンスをくみ取るのは決して容易ではなかったということです.

些細な問題に頭を悩ませるのは現代の文献学者だけではなく,昔の人も同じように細かいところに気を配っていたのです.

テクストの細部まで読み取ろうとすれば,いつの時代であれ,誰であれ,そのような作業が必要になってきます.

そして,案外,そのような細部へのこだわりから作者の意図がよりよく見えてくるということは往々にしてあることです.

また,そのような細部に注意しているかしていないか,素通りするかしないか,更にはどう解決するかで,註釈者の性格・態度・技量も透けて見えてくることになります.

evaやapiの解釈は,読み手の技量が問われる試金石となるのです.

もちろん,よくよく考えても分からない場合,実は,evamの間違いだったり,次の語の接頭辞のabhi-の間違いだったりということもあったりはしますから,テクスト批判の方面からも注意を怠ってはいけません.
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  1. 2015/12/30(水) 15:26:22|
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