Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

失われたオリジナルの意味は復元可能か?

クマーリラと註釈者.

ジャヤミシュラ→スチャリタ→パールタサーラティ

――おそらくこのような年代順序でしょう.

ジャヤミシュラも記録してないようなオリジナルの意味を復元することは可能なのでしょうか?

すなわち,ジャヤミシュラの時に既にクマーリラの原意ではなく,アップデートした解釈が持ち込まれており,その解釈がクマーリラのものとして押しつけられているような場合です.

この場合,クマーリラの原意を復元する手がかりは,クマーリラ自身のテクストの中に探らねばならなくなります.

このような場合,まず,色々な状況証拠が挙げられます.

一番大きいのは,いずれの註釈者の解釈も,原文に即したものでないということです.

註釈がどうも満足がいかないというのが第一です.

一部はフィットしても,他の箇所がフィットしません.

どうも,無理矢理であるのが見えてきます.

つまり,綻びというやつです.

怪しいのです.

1.語の第一義
明らかに言葉の原義で取っておらず,無理に註釈している場合,かなり怪しいと言わざるを得ません.

つまり,この場合,転義的用法ではなく,単語の第一義で理解が可能かどうかを探るということが至上課題となります.

註釈者が無理に第二義に持っていこうとしている場合は,大いに怪しいということになります.

2.文脈
次に文脈です.

前後,特に,前にヒントとなるようなものが必ずあるはずです.

そことの整合性がとれるものが原義のはずです.

これにたいして無理矢理の註釈の場合,その文脈とは別のコンテクストから――例えばダルマキールティの批判を念頭に置いたりして――アイデアを持ってきたりします.

これは怪しい.

前後の文脈に最もフィットする理解がオリジナルのはずです.

3.evaやapiのニュアンスが生かし切れているか
あとは,当該の文章を細かく見ることです.

そこにあるapiやevaのニュアンスが,註釈の理解では生かし切れていないということがあります.

apiということは,「も」「さらにまた」ということですから,何か付け加えているはずです.

したがって,何に何を付け加えたのか,説明できないといけません.

註釈の理解ではそれが説明できない場合,註釈の理解は外れている,オリジナルではない,ということになるでしょう.

以上の条件を満たす解釈を発見できれば,もちろん,積極的に「これが原義だ」と言うことはできないにしても,他よりましな解釈を提案できるということになります.

つまり,これまでのところベストな理解です.

註釈伝統では失われた原義というのはありえますし,復元可能です.

これは,写本で言うemendationやconjectureと同じ作業です.

たとえ写本のいずれにも見つからない読みであっても,我々は,「正しい」読みを提案することができますし,それは,必要な作業です.

註釈のどれにもないから信用できないというのは愚かな考えです.

知覚しか信用しないチャールヴァーカの馬鹿と同じです.

プラマーナにはアルターパッティもあるということを思い出す必要があるでしょう.
スポンサーサイト
  1. 2016/01/04(月) 23:10:36|
  2. 未分類

プロフィール

Aghora

Author:Aghora

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

FC2カウンター

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する