Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

虚心に読むということ

最初の一音から違う,というのはよくある経験です.

同じギターでも,弾く人が違えば,最初から音が違います.

初めてまもなくの人のギターを聞いた後,20年選手が弾くのを聞くと,CDから曲が流れてきたかと思うことがあります.

ハーモニカも同じです.

同じ会社の同じハーモニカなのに,音の太い細い,深い浅いの違いが如実に出ます.

マイクやアンプを通しても通さなくても,その原音の違いは隠しようがありません.

古典を人と一緒に読んでいると同じような経験をします.

読み手の実力の差というのが如実に出ます.

勝負は一瞬でつきます.

古典を一緒に読むというのは真剣勝負でもあります.

そして,一緒に読んだことのある人は,真剣勝負を通じて,お互いの実力を知った仲となります.




では,より深い読み,より正しい読みとは,いったい,どういう事態を指して言うのでしょうか?

テクストには色々な読み方がありえます.

哲学者であれば,そのテクストに書いてあることが正しいのか間違っているのかを判断するために読みます.

あるいは,たとえテクストの作者が意図したことでなくても,そして,読み手の誤読であっても,そこから新しい(正しい)発想が生まれれば,それでテクストを読んだ意味はあったことになります.

ここでは,自分は一歩も動きません.

自分の正しい理性を不動点として,そこから,テクストの真偽を計るのです.

自分という基準点は最初から最後まで動きません.

切られるのはテクストです.

正しいことが明晰に書かれてあれば,それはよいテクストであり,間違ったことが書かれていれば,あるいは,不明瞭に書かれてあれば,それはよいテクストとは呼べません.

そして,できれば,いままで読み手が知らなかった正しい情報が手には入ればそれでよし.

あるいは,既に述べたように,読み手の新しい発想の源になれば,それでいいのです.

新たな発想のネタ元として役立てば,誤読であっても構わないのです.

ここでは,作者に寄り添うという発想は必要ありません.




いっぽう,古典学者は違います.

文化人類学と同じで,あくまでも,研究対象である作者の心の側に寄り添っていかなければなりません.

現代の基準から見て作者の思考・思想が間違っているかどうか,あるいは,論理的に正しいかどうかは,ひとまず関係ありません.

作者なりの一貫した心の世界に寄り添って,その作者の知的世界の筋道を辿り,なぜこのような発言を行ったのかを理解していかねばなりません.(極端に言えば,患者の心の世界を読み解こうとする精神療法家と同じです.)

たとえ非論理的であっても,その作者当時の常識から見れば,それは極めて当然の発言だったりします.

あるいは,背景には,作者以前の権威あるテクストがあったりします.

どんな優れた知性の作者も時代の子です.

時代に色濃く縛られています.

その時代を背景にした発言というのは当然でてきます.

現代の読み手は古典の作者の心に自分の心をシンクロさせることが必要になります.

一種の憑依といってもいいでしょう.

目標は,作者自身になりきることです.

「こんなことは言わないはずだ」「こういうことを言っているはずだ」ということまで分かるようにならねばなりません.

だから,テクストの訂正であるemendationやconjectureという校訂作業が可能になるのです.

古典学者がテクストを「虚心に読む」というのは,現代風の思い込みのあれやこれやに縛られた自分を一旦無化して,昔の作者の思想世界・知的世界に自分を完全に同調させる作業を言います.

聖典解釈学のシャバラは,彼にとっての古典であるスートラを註釈するにあたって,冒頭,次のように述べています.

可能な限り,スートラの語法は,世間の語法と同じだと理解すべきだ,と.

つまり,世間一般で用いられている語と同じ意味で,スートラの語を理解するということです.

これは,第一義で理解すべきであって,勝手な補い或いは第二義的解釈を安易に行ってはならないということです.

最もストレートにテクストを理解すること,それが,テクスト理解の大前提だと言うのです.

テクストの全体を意味あるものとして,一貫性あるものとして読むとき,作者が前提とする教養,知的背景を知る必要があります.

その中で,できるだけ言葉の第一義に即して理解しなければなりません.

転義適用法や補いは,読み手の勝手な読み込みです.

そこには作者を無視しようとする自分が潜んでいます.

まずは虚心に第一義で作者の心の世界に入っていかねばなりません.

その上で,どうしても意味をなしえないときに,初めて,作者が意図していたものとして比喩的用法や隠れた意味や省略された背景を想定します.

その想定は,作者の知的背景に精通することで十分予想可能なものとなります.

「こんな風にちょっと変わった言い方をしているけど,これは,こういう背景だよ」「ここでははしょってるけど,これは,既に別の所で議論されているから」

ということが分かるようになればしめたものです.

証拠となるのは,作者の別の箇所での発言,そして,彼が当然読んでいたであろうその当時の文献群(その当時の古典や,或いは,彼より少し前の作者や同時代の対論者)などです.




理系は頭の柔軟な20代でピークが訪れる分野もあるでしょう.

その意味では,サッカーや陸上と同じです.

しかし,古典学の場合は,作者の背景に精通する円熟度がものを言います.

やたらめったらと論理の刀を振り回しても,テクストは切れるものではありません.

その意味では武道と同じと言えるでしょう.

相手の動きに合わせていくという点では合気道なのかもしれません.

作者の心の動きに合わせて柔軟にこちらのソフトやアプリケーションを替えていく――それが,様々なテクストと付き合っていく醍醐味でもあります.




2002年,ハルナガやドミニクと一緒に,イムレやチャバを始めとするハンガリー勢の手引きで,トランシルヴァニアにて国際サンスクリット夏集中合宿(FIISSR)を行いました.

オックスフォードの時の知り合いを中心とするメンツです.

日本からは,私の他,オックスフォードの種村さん,それにフローニンゲン(浮浪人間?)の横地さん.ハンブルクにいた藤井君も参加していました.

その時に読んだのがジャヤンタの『論理の花房』の「唯識批判章」です.(その成果となる校訂テクストは2003年に出版しました.)

ちょうど,アレックス・ワトソンが博論で扱っていたラーマカンタの『人と神の考察照明』に関連する箇所でもあったので,グッドタイミングとばかりに取り組んだものです.

宿では,シャーストラ指導組ということで,私はアレックスと同部屋にしました.

その読書会では他に,ラグヴァンシャやタントラも読みました.

いずれも各人の研究成果として,それぞれ爾後にまとめられていったものばかりです.

同じテクストを一緒に読む経験というのは貴重なものです.

カーヴィヤの予習に藤井君が弱っていたのを思い出します.

ハンガリー勢は,カーヴィヤは強いものの,シャーストラは不慣れの様子でした.

いずれのセッションでも,最強選手はやはり大将ハルナガ,そして,次鋒ドミニクでした.

カーヴィヤ,タントラ,シャーストラ,いずれの分野でも読みこなすには,相当の技量と鍛錬が必要です.

他流試合は、自分にはないもの(すなわち弱点)に関して,自分を鍛えるいい場所です.

全方位的に読める,どの時代のどんな分野でも読めるというのは,サンスクリット古典学者の目指すべき目標の一つでしょう.
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  1. 2016/01/10(日) 07:08:12|
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