Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

インド留学について

博士課程ともなると,サンスクリットの実力を更に伸ばすために,インド留学も考えるというもの.

しかし,一概にインド留学といっても,分野によって,メリットがあったり,なかったりです.

文法学やナヴィヤニヤーヤ,あるいは,カーヴィヤやアランカーラとかならば,インドに留学する意味はあるでしょう.

先生が沢山いるし,一般的なレベルも高いからです.

そして,注意すべきは,彼等が習ったことのあるテクストを習うほうがいい,ということです.

インドでは,基本的に,新しいテクストを自分の力で読む,という作業は余りしません.

先生から習ったものをそのまま繰り返す,若干のアレンジを加えて,というのが基本です.

自分の力で未知のテクストを応用力で読めるのは,本当に有名なパンディットと言われる人くらいです.

そうでない多くの場合,自分が習った基本テクスト,いわば,高校教科書のような固定した教科書テクストだけに,その人の知識は限定されています.

ただし,暗記するくらいにまでじっくり習っていますが.

また,深めるときも,そのような教科書テクストの註釈を読み込んだりしています.

したがって,ニヤーヤでも,ムクターヴァリーとかなら誰でも教えることができますが,これが,ニヤーヤバーシャとなると,実際には,誰も伝統的に習ったことがなかったりします.

応用力でちょろちょろは読めるでしょうが,わざわざインド留学してまで習うような代物ではなかったりします.

つまり,インド留学するなら,彼等の得意なものを学ぶ方が良い,ということです.

自分の好きなテクストを持っていって「これ読んでください」といっても,外れる場合が多いということです.

そういうことが可能なのは,本当に一部の優れたパンディットだけです.

ミーマーンサーの場合は,もともと母数が少ないので,先生を見つけるのは,至難の業です.

とくに,ミーマーンサーの場合は,英語で学ぶことは,100%ありえません.

サンスクリット会話・聞き取りができないと,習うのは無理でしょう.

英語で習えたとしても,せいぜい,アルタサングラハなどの入門書レベルです.

また,インドで実際に教えられているミーマーンサーは,バーッタディーピカーなどの後代の書です.

古いものは,誰も読みませんし,読めません.

タントラヴァールッティカを教えられる人というのは,滅多にいないでしょう.

ともあれ,インド留学の場合,生活基盤を確立するのが大変です.

ポンディシェリやプーナのように,外国人慣れした場所ならいいですが,私の行ったティルパティなど,外国人が全くいないようなところでは,日本人・欧米人は,勉強以前の段階で多くの苦労を強いられることになります.

わたしも,ミーマーンサーの専門の先生に出逢うまでに10ヶ月かかりました.

また,A先輩は,デリーに交換留学していましたが,「いやー,インド,一年くらいしてから,ようやく勉強できるような環境になるんだよねー」と言っていました.ちなみに,彼の場合,交換留学は一年間なので,帰国間際になって,ようやく勉強できる環境が整ったということになります.つまり,勉強できたのは,ほんの一瞬.

インド留学は,一年では短すぎる,ということです.何も勉強せずに帰ってくることになります.

仏教研究を志す場合,特に,サンスクリット文献を読める先生を探すのはほぼ不可能でしょう.(サルナートやチベタンキャンプのチベット仏教は今は除きます.)

インドの場合,仏教をサンスクリットで読む先生というのは,ほとんどいません.

PVを読んで貰おうと思っても,誰も読める人がいないのです.

その場合,インド留学は的外れ,ということになります.

sikatāsu tailam「砂漠にごま油を」求める,というようなことになります.

そういえば,仏教の後輩も一人,留学したはいいけど,生活の困難さと勉学の不毛さに,さっさと切り上げて帰ってきたのを思い出しました.切り上げて正解だと思います.

以前,九大インド哲学史の歴史をまとめ直しましたが,戸崎先生をはじめとする九大インド留学組も,やはり,インド留学では,えらく苦労していたようです.勉強以前のレベルで,ひどく苦労をされている様子がうかがえました.

戸崎先生も,最初は先生の英語を理解するのに,えらく苦労したそうです.

コミュニケーションの段階で問題を抱えていたそうですが,最後のほうは,非常に勉強になったそうです.

最終的にうまくいった例外的パターンでしょう.

インド留学の場合,やはり,英語で習うのではなく,サンスクリットで習わないと,効率がかなり落ちます.

情報の伝達という点で,サンスクリット→1→非英語話者インド人の英語→2→非英語話者日本人の英語聞き取り→3→日本語,という過程で,脱落するものは,あまりにも多くあります.まず,1の段階で多くのニュアンスが失われます.インド人も,ヒンディー語なり,タミル語なりで説明するならば,多くのニュアンスを込めて説明できますが,英語の場合は,どうしても,大意を取る,ということにならざるをえません.

また,インド人の英語から日本人の英語聞き取り,という第2の段階も,結構あやういものです.

そして,その英語を日本語にもってくる3の段階も,やはり,あやういものです.

我々が努力することで,インド人のサンスクリット→1→日本語,というダイレクトなコミュニケーションが可能になります.

というわけで,まず,数ヶ月を費やしてでも,サンスクリット会話をマスターするのがいいでしょう.

3ヶ月も頑張れば,サンスクリット語で夢を見るようになります.

漢字文化圏の我々は,配布された紙で読むという作業に慣れきっていて,耳から学ぶ,まさにśrutaな耳学問の世界になれていません.

しかし,インドの場合,テクストに目を落とすほうが,むしろ,まれです.

先生が読みあげ,コメントする文章をそのまま理解するのが普通です.

耳から理解します.

サンスクリットでいうśabda(言葉)は何よりも実際の音声のことです.

書かれた文字ではありません.

言語というのは,なによりも音です.

それは,インド人の先生から学ぶという体験を通すと身に沁みて分かります.

その上,暑いと,いちいち本に目を落として,さらに,ノートを取ってという作業が面倒になります.

耳から入ってくるだけで記憶する方が遙かに効率がいいのです.

インド留学の場合,少なくとも勉強に関しては,労多くして実り少なし,という事例が多くあるように思います.9割そうでしょう.

優れたミーマーンサーのパンディットに出会えて親しく習えたわたしはラッキーでした.(しかも彼は気むずかしく,気に入った人にしか教えませんでした.また,パンディットならそうでしょうけど,外国人は,基本,余り好きではない様子でした.面倒くさいからでしょう.)

欧米人の場合,習っているのに先生に噛み付いて反論したりしますが,それは,インドのパンディットに習う場合は,まず止めておいたほうがいいでしょう.

ブロンクホルスト教授も,彼がシヴァラーマシャーストリーに習っていたプーナでの昔話を今回,お茶のみ話で,してくださいました.

ちょっと反論したら,1時間授業のうち,40分もお説教されたそうです.

そこらへんは,日本人なら問題なく黙っていられるでしょうけど,やはり,教育環境が違う欧米人は,先生が間違ったことを言った場合に黙っていられないのでしょう.同様の問題は,私の習ったパンディットからも聞いたことがあります.

「インド人は議論好き」とはいっても,師匠と弟子となると,話は別です.

そこは,東アジア世界と全く同様,尊敬・上下が厳然とあります.

師匠が少々間違ったことを言ったからといって,鬼の首を取ったかのように重箱の隅をつついてはいけません.

そういうもんだからです.

インド世界で学ぼうとするならば,まずは,回路を切り換える必要があります.

郷に入っては郷に従え.

インドに行ったらカレーを食え,ということです.

インドの朝食でうまいのは,やはり,プーリーポテトやイドゥリーサンバルであって,ジャムトーストではありません.
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  1. 2016/02/26(金) 19:24:35|
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