Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

無自性の意味論:ナーガールジュナとディグナーガ

サンスクリット語の発音には,有気音と無気音の対立があります.

例えば,taとthaは,それぞれ,タとタと発音されます.

前者が口の前に置いた紙が揺れないのに対して,後者では口の前に置いた紙が揺れます.

同じtaが,今度は,daに対しては,無声音として,有声音との対立のもとに置かれます.

つまり,ta(タ)とda(ダ)の対立は,無声か有声か,という観点の下に眺められます.

このように,taは,対立する音韻によって,「無気音」と呼ばれたり,「無声音」と呼ばれたりします.

サンスクリット学者であり言語学者であるソシュールにとって,taそれ自身が独立してあるのではなく,対立する音韻のもとで初めて存在意義をもつようになる,ということは自明のことだったでしょう.

差異こそ意味,構造こそ意味ということです.

タミル語であれば,taもthaもdaもdhaも区別しませんから,文字にすると一緒にされてしまいます.

そこに区別はありません.全部同じ音素です.対立するものがなければ,同じものとなるのです.




「白い牛が行く」という文章は,白という共通する性質に限定された,牛性に限定された個物が,進行という共通する行為に限定されている,という事態を表わすと理解されます.すなわち,或る実体の上に,白という性質,牛性という普遍,進行という性質が載っかっていると理解されます.

あるいは,行為を中心に考えれば,白という性質に限定された牛という実体が,進行行為という主要素を実現すると理解されます.

いずれにせよ,それぞれの語は,それぞれの独立した意味を表わすと前提されています.

つまり,「牛」が牛性という普遍を,「白い」が白という性質を,「行く」が進行という運動を,というようにです.

それぞれの語には対応する意味対象があり,それぞれの語と意味とには一対一の対応があります.

当然,意味というからには,普遍的であり不変のものでなければなりません.

その場限りでしか通用しないような意味は,コミュニケーションには用いることができないからです.

昨日の牛と今日の牛,あるいは,百年前の牛にも百年後の牛にも共通するような牛性を「牛」という語は表わすはずです.

このように,語には,しっかりとした独立した意味対象がある,と考えることができます.




我々は,このような思考に深く根ざしながら生きていますから,そのことをあらためて意識することはありません.

ナーガールジュナは,このような我々の言語観,さらに,その基になっている概念化作用を厳しく批判します.

彼によれば「行く人が行き先に[今]行く」という言語表現は,このような実体化思考のもとでは必ず破綻を起こすものと捉え直されます.

「行く人が行く」という場合,行為主体である行く人,行くという行為,行き先という行為対象の三つが登場します.

実体化思考のもとでは,いずれにも,他と独立した意味対象があるはずです.

すなわち,行く人として,進行行為として,行き先として,いずれも,普遍的で不変のものが表示されているはずです.

実体化思考のもとでは,それら意味対象は,相互に依存することなく,それ自体で成り立っているものとして前提されています.

しかし,行くことのない行く人が考えられるでしょうか.

行為と行為主体は,それぞれ独立した自存物でしょうか.

もし行く人と進行行為が独立しているならば,行くことのない行く人が存在しなければなりません.

独立したXとYに関しては,XなしでYがあってもよく,YなしでXがあっても良いはずだからです.

あるいは,行くことのない行き先が考えられるでしょうか.

行為と行為対象とは,それぞれ独立した自存物でしょうか.

もし進行行為と行き先とが独立しているならば,行くという行為を欠いても行き先が存在するはずです.

あるいは,逆に,「行く1人が行く2」には,「行く1人」が持つ行く1と,「行く2」の行く2という二つの行くがあることになってしまいます.

同様に,「行き先に行く」でも,二つの行くがあることになってしまいます.

もちろん,行くという行為は行く人なしには成立しませんから,だとすると,「行く1人が行く2」という場合には,行為主体は,実は,二人いるということになってしまいます.

「私が行く」という単純なことを言うはずが,私が二人になってしまうのです.「私が天神(という行き先)に行く」なら三人になってしまいます.

このように,帰謬論法をもちいながら,いわば「乗り突っ込み」によって,相手の論法に則って話を進めていくと,最後に話が破綻してしまうという帰結を示してやるのがナーガールジュナのやり方(やられる相手から見れば「手口」)です.

ナーガールジュナによれば,「行く人が行き先に行く」という表現は,実体化思考のもとでは必ずや破綻してしまう性質のものなのです.

それぞれの要素は,独立自存の要素ではなく,相互依存の上に成り立っているものとして理解しなければならないのです.

それが彼にとっての無自性ということでした.




では,結局,「牛」は何を表示しているのでしょうか.

言葉は独立自存の意味を持たない,つまり,有自性な存在を表わすものではない,ということは分かりました.

では,何を表わすというのでしょうか.

無自性ということを,どのように,意味論において実現すればよいのでしょうか.

ディグナーガのアポーハ論は,そのような文脈の下に捉え直すことができます.

「牛」という語は,牛でないものでないもの,すなわち,非牛以外のものを表わす,というのがディグナーガの解決方法です.

この解決方法は,インドの意味理論においては,別に,ディグナーガの創造物というユニークなものではありません.

ディグナーガ以前にバルトリハリにおいても,排除が意味であるという発想は既にありますし,それ以前の文法学者にも既に(重なりではなく)排除が文意であるという発想は十分に練り上げられています.

「青い蓮」という時,青という集合円と蓮という集合円の重なりを考えることができます.

重なりを意味とする立場では,青蓮という意味が積極的に指されると考えます.

ポジティブな意味論です.

逆に,排除を意味と考えることもできます.ネガティブな意味論です.

「青い蓮」と言うとき,「青」によって非青が排除されます.

また「蓮」によって非蓮が排除されます.

結局の所,「青い蓮」において文意となっているのは,非青の排除と非蓮の排除だ,ということになります.

非青の排除,非蓮の排除,その二つの排除が直接的な意味であり,その排除の後に残ったものが,我々が「青い蓮」という二語から理解するものだと言うことができます.

ディグナーガの語意論は,この文意論の発想に根ざすものです.

「牛」という語は,牛に他ならない,牛以外ではない,という排除を表わします.

そうして非牛を排除したあとに残ったものが,「牛」という語から理解されるものなのです.

彼にとって,「牛」の意味とは,牛性のような独立自存のものではありませんでした.

それは,同一レベルにある非牛(例えば馬・象・ライオン…)の排除を第一義的に表わします.

他との対立の上に意味というものは成り立っているのです.

意味というのは,他との対立を考慮せずに単独で成り立っているようなものではないのです.




このように見てくると,理論的でとっつきにくいかに見えるディグナーガの意味論(語意論)も,ナーガールジュナの「無自性の言語観」に深く根ざしていると言うことができるでしょう.

無自性というものを,意味理論の場で具体的に示したのがディグナーガだったと言って良いでしょう.
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  1. 2016/05/29(日) 10:35:19|
  2. 未分類

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