Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

darśanam

中論3.2については,たまたま目に付いた以下の和訳がありました.

八力広喜「『順中論』考」85頁(『北海道武蔵女子短期大学紀要』11, 1979, 63-85)

実に見るということは、それ自体を見ない。自体を見ないとき、どうして他のものを見ようか。



darśanamを「見るということ」と訳しているわけです.

しかし,漢訳者の多くが「眼」と訳していることからも分かるように,ここでは,見るという行為の手段,すなわち,視覚器官(視覚機能)を指しています.すなわち,この場合,anaとなるLyuṬは,行為ではなく手段を表わします.

「見るということは、それ自体を見ない」という訳文から,いったい,何が理解できるのでしょうか.

善意をもって解釈するならば,「見るという行為は,それ自体を見ない」ということになるはずです.

しかし,それは,もちろん,龍樹の意図したことではありません.

この偈では単に,眼がそれ自体を見ることはない,という事実が指摘されています.

そのことが,「見る手段(つまり眼)は,[眼]それ自体を見ることはない」と言われているのです.

漢訳に引きずられることなくサンスクリットから実直に訳す努力をされているのは評価できますが,しかし,テクニカルなサンスクリットの文や語を理解するには,文法学的な背景も押さえてないと,間違うことになるという一例です.

つまり,darśanamは,見るという行為を指すと解釈することも可能であり,実際,用例としてはそれが一般的でしょうが,場合によっては,すなわち,kṛt接辞が手段を表わすと解釈される場合には,見る手段を表わすことも,サンスクリット語の解釈としては可能であるということです.
スポンサーサイト
  1. 2016/06/10(金) 06:54:33|
  2. 未分類

プロフィール

Aghora

Author:Aghora

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

FC2カウンター

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する