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On Indian Philosophy and Buddhist Studies

注釈書や他の文献との比較参照なしに解読することは不可能か?

金沢豊『『中論頌』における「見」の研究』(龍谷大学提出の博士論文,2011年)
54頁

19世紀末にはMMKの翻訳研究がはじまるが、MMKが注釈書や他の文献との比較参照なしに解読することが不可能である事は、注釈書に関するの(sic)膨大な先行研究の量が物語っている。



この文章は納得できません.

まず,論理的に考えておかしいところがあります.

ここで金沢豊氏は,「注釈書に関する先行研究が多いこと」から,「注釈書などを参照することなく解読することは不可能」という推論を行っています.

しかし,このようなことが一般的に成り立つのでしょうか?

Xに対する註釈が多いということは,様々な解釈が後代において起こった,その原著Xが後代のそれぞれの時代で人気があった,あるいは,権威ある古典と考えられていた,ということを物語りますが,必ずしも,その原著Xが,原文それ自体において解読不可能であるということを意味しません.

XはXそれ自体で解読可能なこともあります

また,この推論から導かれる金沢豊氏の結論は「中論は原文それ自体で解読することは不可能である」というものです.

本当にそうなのでしょうか?

簡潔とはいえ,中論は,帰敬偈を含めて合計449偈があります.(もちろん,PrPのテクストから抽出・再構成されたものである,ということは考慮しなければなりませんが.)

1偈だけが単独であるならば,確かに,その原文の意味を捉えきるのは,注釈書なしには不可能かもしれません.

しかし,449偈もあり,しかも,それぞれがしっかりとした順序・文脈をもって構成されているものについて,「解読不可能」ということがあるのでしょうか.

それは単に原文を解読する努力を怠っているからではないでしょうか.

原著Xの原文Aについて,Aに関する注釈書を数多く引いてきて,先行研究を数多く参照するよりも,まず第一に行うべきは,同じ原著Xの同様の文脈にある原文Bや用例Cについて,詳しく検討することです.

そちらのほうが,後代のテクストにあたるより,はるかに大事だと思います.(その次に行うべきは,Xに先行するテクストの参照です.)

そうすることで,原文Aについての解読は可能になるはずです.

そのような努力も行わないで「原文単独で解読は不可能」と断ずるのは,龍樹にたいして「お前は何を言っているのか分からん」と言っているのと同じです.

しかし,見れば分かるように,龍樹の原文は,言っていることは十分に分かりますし,文脈や他の用例から,十分に補足理解可能なものです.

いったい,何をもって,あるいは,どのような問題を捉えて,「注釈書や他の文献との比較参照なしに解読することが不可能である」と仰っているのでしょうか.

どのレベルでの「解読」なのでしょうか.

常識的な意味での「解読」であれば,中論に関していえば,原文だけで十分に可能であると私は思います.

例えば次の例を見てみましょう.

svam ātmānaṃ darśanaṃ hi tat tam eva na paśyati/
na paśyati yad ātmānaṃ kathaṃ drakṣyati tat parān//2

という原文は,まず,単語の順序を散文的に直せば,

tat darśanaṃ hi tam eva svam ātmānaṃ na paśyati.
yad ātmānaṃ na paśyati tat kathaṃ parān drakṣyati.

となるでしょう.

これを直訳すれば,

「なぜならば,その視覚器官は,それ自身である自分自身を見ることがないからである.自分自身を見ることがないもの,それが,どうして,他(複数)を見るだろうか.」となります.

特に難しいところのない文章です.

「注釈書なしに解読不可能」というほどのものではありません.

龍樹の言いたいことは,この原文から十分に理解可能です.

すくなくとも「解読」ということに関して言えば,龍樹の文章は,注釈書なしには解読不可能と言うほどのものでは決してありません.

『ミーマーンサー・スートラ』の原文解読の困難に比べれば,むしろ,平易・簡潔な文章であると思います.

すなわち,注釈書なしでも,十分に解読可能な文章です.

「注釈書なしでは解読不可能」という主張は,往々にして,多くの注釈書の異なる解釈に引きずられ,原文を虚心坦懐に読む姿勢を失った結果として起こってくるのではないかと疑います.

注釈書にあたるよりも,まず,それより重要な他の証拠(原著・同著者帰属文献・同時代文献・先行文献)にあたるべきだと思います.

そして,最も重要な証拠が,原著の中の他の用例や文脈(そしてそれによって著者が示している思想・発想法・論理)であることは言を俟ちません.

実際のところ,金沢豊氏は,「見」について中論の全ての用例にあたり,細かい検討をなされています.

また,関連する先行テクストにもあたられています.

このような努力は,「注釈文献なしでも解読可能」という前提があるからだと考えられます.

また,もしも,あらゆるテクストXについて,その意味するところは,その注釈書Yを参照することなしには理解不可能だという強い主張であるならば,その場合,その注釈書Yについても,復注釈書Zを参照することなしには理解不可能だ,というようになり,無限後退が起こることになってしまいます.
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  1. 2016/06/10(金) 08:30:39|
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