Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

薪は作用か?

小澤千晶 2006
「『中論』における無自性をめぐる五種の探求(pañcadhā mṛgyamāṇa)」
『印仏研』54-2
988(125)-985(128)

小澤 2006:988 (125):
yad indhanaṃ sa ced agnir ekatvaṃ kartṛkarmaṇoḥ
anyaś ced indhanād agnir indhanād apy ṛte bhavet// MK X-1
薪,もしそれが火であるなら,作者と作用には同一性が存在することになるだろう.もし,火が薪と異なるものならば,薪なしでも存在するであろう.(赤字強調は筆者)



小澤氏は,karmanを作用と訳した上で,さらにab句について次のように解説しています.


ab句で火と薪の同一性を批判し,作者と作用の関係と同じであるとする.



しかし,Siderits & Katsura 2013:110が正しく"If the fuel were identical with the fire, then agent and object would be one."と訳出するように,ここでのkarmanは行為ではなく行為対象(object)です.

「火が薪を燃やす」という時の,燃やすという行為の行為主体である火,行為対象となる薪の関係を問題としているわけです.

この構造を捉え損なうなら,そもそも,火と薪の議論を根本から誤解してしまっていると言わざるを得ません.

火が行為主体で薪が行為対象であるという,この明快な構造が小澤氏にはあやふやだったのでしょう,冒頭の解説においても,薪に「燃えさかる」という作用をわざわざ付けて,〈燃えさかる薪〉を現象(おそらく作用と同一視している)として解説しています.

小澤2006:988(125)
『中論』註釈者たちが紹介しているように対論者は「燃えさかる薪」という現象に対して,火を「火」と識別し,薪を「薪」と識別させる何かを自性と呼び,その火と薪の自性が相互に依存し合うことで「燃えさかる薪」という現象が生じていると説明する.(赤字強調は筆者)



確認の意味で,註釈者の一人である月称がどのように説明しているかを見ておきましょう.

tatredhyate yat tad indhanam,そこで点火(idh)されるものが薪(indhana)である.

dāhyaṃ kāṣṭhādikasaṃbhūtam. 燃やされるもの,小枝などからなるものである.

tasya dagdhā kartāgniḥ. それを燃やす者,行為主体が,火である.

tatra yadi tāvad yad indhanaṃ sa evāgnir iti parikalpyate そこで,もし,第一に,「薪=火」と想定されるならば,

tadā kartṛkarmaṇor ekatvaṃ syāt. 「行為主体=行為対象」ということになってしまう.

na caivaṃ dṛṣṭam, しかし,そのようなことは現実には見られていない.

ghaṭakumbhakārayoś chettṛchettavyayoś caikatvaprasaṅgāt, 「=陶工」,「切り手=切られる対象」,ということになってしまうからである.

tasya cānabhyupagamāt. そして,そのようなことは[君も]認めていないからである.



陶工と壺,切り手と切られる対象,という別の例が挙げられていることからも分かるように,問題となっているのは,行為主体と行為対象であって,行為主体と作用ではありません.

chettavyaが切られる対象であり,切るという行為の対象であることは一目瞭然です.

薪が行為対象であるということを捉え損なった小澤氏は,「火と薪の考察章」によって,一体,何を理解していたと言えるのでしょうか.

中論10.13において龍樹自身が言うように,「火が薪を燃やす」という構造は,第2章で論定される「行く者が行き先に行く」というのと同じ構造をしています.

つまり,行為主体・行為対象・行為が問題になっているのです.

この構造を捉え損なうならば,中論の議論の重要な一つを捉え損なったことになります.

それは,前章である第9章で論じられるpudgala(10:15: ātman) とupādānaの関係にも当てはまります.

そのことは,中論10.15で龍樹自身が指摘していることです.

ここで言う五取蘊であるupādānaは,作用ではなく行為対象が意図されています.




ナーガールジュナの言いたいことをサンスクリット原文で理解しようとするならば,行為(kriyā )と行為参与者(kāraka)について心得ておくことが肝要です.

サンスクリット文法学の常識も踏まえずにサンスクリットの世界に飛び込むと思わぬ火傷をすることになります.

議論の根幹となる第2章を正しく理解するには,文法学の背景を明らかにしている小川英世 1991 (印仏研39-2)を,まずは熟読すべきです.(*なお,小川英世氏は,行為対象であるkarmanを,kartur īpsitatamamという側面を考慮してでしょう,一貫して「目的」と訳されています.)




なお,小澤氏は,2014年の論考(「無我の教説とことば」)において第2章の文法学的背景について小川論文も引きながら論じています.

小澤千晶 2014
「無我の教説とことば」
『京都光華女子大学研究紀要』52, 19-33.

そこでは,karmanの両義性が論じられています.

後から問題に気が付かれた,ということでしょう.

しかしながら,小澤氏は,karmanに両義があることをナーガールジュナが利用していると考えているようです.

したがって,ここでもナーガールジュナはサンスクリット語の言語観を利用して,意図的に"karman"の語に「行為」と「行為目的」の両義性を持たせて第8章の議論を展開していたといえる.(p. 23左)



以上のことから,ナーガールジュナが第8章で用いる"karman"が「行為」を意味するか「行為目的」を意味するかは断定できないものの,その両義性が意識されい(sic)ていることは指摘できよう.(p. 23右)



第8章を仏語訳したMay [1959]は先にあげた第2偈の註釈を重視して<acte>と訳し(May [1959], p. 144, n. 413),Bhattacharyaはこの文脈の"karman"の両義性を踏まえ,'the <act-object>'と翻訳する(Bhattacharya [1980-1981], p. 42).また,Siderits and Katsura [2005]は'action'としていたが,2013年に出版された版ではこの章の"karman"をすべて'object'に改訂している.現段階で,筆者は両義性が意図されているという以上の結論は出せない.(p. 29右, n. 29)



これについては,またの機会に検討予定.
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  1. 2016/06/15(水) 19:16:49|
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