Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

kāraka and karman

同様の問題は次の論文にも見られます.


小澤千晶 2006
「清弁と相互依存の縁起― 『般若灯論』の用例を中心として―」
『印佛研』55-1, 458(55)-454(59).

ここで主題となっているMMK 8.12におけるkārakaとkarmanとは行為主体と行為対象のことです.

Siderits & Katsura 2013は正しく次のように英訳しています.

pratītya kārakaḥ karma taṃ pratītya ca kārakam/
karma pravartate nānyat paśyāmaḥ siddhikāraṇam//12//
12. The agent occurs in dependence on the object, and the object occurs in dependence on the agent; we see no other way to establish them.



小澤氏は次のように解説しています.

『中論』第8章12偈の註釈にあたって,月称はその詩頌が「陽炎の水のごとき世俗的な諸事物が世間的に成り立っている(prasiddhi)のは,〈これを縁とすることのみ〉を承認することによってこそであって,他のことによってではない」(Pras 189.1-3)ことを示しているとした後,次のように述べている.

この世では,行為もしないで行為に無関係なものが行為者であることはないから,行為に依存した行為者が行為者なのである.また,いかなるものであっても,行為者が行為していないようなものが行為であることはないから,「その行為者に依って,行為が生起する」(MMKⅧ-12b)のである.現に行われていることにこそ〈行為〉という名称(vyapadesa)があるのだから.したがって以上のように,行為と行為者には相互依存した成立(parasparāpekṣikī siddhiḥ)以外に,「他の成立の根拠を我々は見ない」(MMKⅧ-12d)のである.(Pras189.6-9)



以上,赤字部分の「行為」は全てkarmanの訳ですが,いずれも,行為対象と置換すべきです.

また,緑字部分のkriyamāṇasyaは,「現に作られつつあるもの」という行為対象を表しています.

最初の文章であるkārakeṇa cākriyamāṇasya kasyacit karmatvābhāvātを小澤氏は

「また,いかなるものであっても,行為者が行為していないようなものが行為であることはないから」


と訳していますが,

「また,行為主体によって現に作られつつない如何なるものも行為対象ではないので」

とすべきです.

同様に,第二のkriyamāṇasyaiva karmavyapadeśātを小澤氏は,

現に行われていることにこそ〈行為〉という名称(vyapadesa)があるのだから



と訳していますが,

「現に作られつつあるものだけが「行為対象」と呼ばれるから」

とでも訳すべきでしょう.
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  1. 2016/06/16(木) 08:18:52|
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