Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

karman at MMK 8.1-2


小澤 2014:23左:
「したがって,ここでもナーガールジュナはサンスクリット語の言語観を利用して,意図的に“karman”の語に「行為」と「行為目的」の両義性を持たせて第8章の議論を展開していたといえる.」

小澤 2014:23右:
「以上のことから,ナーガールジュナが第8章で用いる“karman”が「行為」を意味するか「行為目的」を意味するかは断定できないものの,その両義性が意識されい(sic)ていることは指摘できよう.」



小澤氏の主張は揺れていますが,弱い主張と強い主張として,次の二つにまとめられます.

弱い主張:
ナーガールジュナが第8章で用いる“karman”が「行為」を意味するか「行為目的」を意味するかは断定できない

強い主張:
両義性が意識されている
意図的に“karman”の語に「行為」と「行為目的」の両義性を持たせて第8章の議論を展開していた



まずは,問題となっている,第8章冒頭の二偈を確認しておきましょう.

Siderits & Katsura 2013:91:

sadbhūtaḥ kārakaḥ karma sadbhūtaṃ na karoty ayam/
kārako nāpy asabhūtaḥ karmāsadbhūtam īhate//1//

1. A real agent does not bring about a real object;
nor does an unreal agent aim at an unreal object.

sadbhūtasya kriyā nāsti karma ca syād akartṛkam/
sadbhūtasya kriyā nāsti kartā ca syād akarmakaḥ//2//

2. There is no activity (kriyā) with respect to an agent that is real, [so] the object would be without an agent.
There is no activity with respect to an object that is real, so too the agent would be without an object.



小澤氏の強い主張は,赤字部分のkarmanについて,「意図的に“karman”の語に「行為」と「行為目的」の両義性を持たせて」いるというものです.

弱い主張は,「“karman”が「行為」を意味するか「行為目的」を意味するかは断定できない」というものです.

本当に,我々は,ここでのkarmanが行為対象(小澤氏の言う「行為目的」)に限定されないと言えるのでしょうか.

英訳で確認できるように,Siderits & Katsura は,シンプルに,karmanをobjectに限定しています.

この英訳はまったく正当であると私も考えます.

これに対して,小澤氏の見解は,次のように偈を理解しようとするものです.小澤 2014:29左, n. 24にMMK 8.1の原文が引かれるものの,小澤氏自身の訳文は示されていないので,上の英訳を転用して,ここで,小澤氏の意図を明確化しておきます.

1. A real agent does not bring about a real object/action;
nor does an unreal agent aim at an unreal object/action.

2. There is no activity (kriyā) with respect to an agent that is real, [so] the object/action would be without an agent.
There is no activity with respect to an object/action that is real, so too the agent would be without an object/action.


小澤氏の意図するところは,karmanに両義性がある,あるいは,必ずしも行為目的に限定されない,というものです.

つまり,行為目的・行為の両方がナーガールジュナによって意図されている,あるいは,少なくとも意識されている,ということです.

これは本当でしょうか.

karmanという語でもって行為も意図されていると仮に考えてみましょう.

その場合,2cは次のように理解されることになります.(sadbhūtasyaの係り先である隠れたkarmaṇaḥを補います.)

sadbhūtasya [karmaṇaḥ] kriyā nāsti
There is no activity with respect to an action that is real



この場合,sadbhūtasya [karmaṇaḥ] kriyā nāsti は,「現に存在するものである(=実有である)行為を作る働きは存在しない」となってしまいます.

「行為対象を作る働きは存在しない」なら理解できますが,「行為を作る働きは存在しない」は変です.

なぜならば,karmanを行為と解釈した場合,明らかに行為であるkriyāと重複することになるからです.「作る働きを作る働き」となってしまいます.

「作られる対象を作る働き」なら,難なく理解できます.

つまり,小澤氏の解釈に従う場合,ナーガールジュナがわざわざ行為に対してkriyāという別の語を用いてくれていることが説明不可能となります.

したがって,ここでのkarmanは一義的に行為対象に定まると考えなければなりません.

以上から,次の小澤氏の主張は間違いだと言えます.

小澤 2014:23左:
「したがって,ここでもナーガールジュナはサンスクリット語の言語観を利用して,意図的に“karman”の語に「行為」と「行為目的」の両義性を持たせて第8章の議論を展開していたといえる.」



簡潔にポイントを述べるなら,「なぜなら行為に対して,この文脈では,ナーガールジュナは,無用な混乱を招かないように,kriyāという別の語を用いてくれているから」ということになります.

また,MMK 8.4におけるkriyā kartā karaṇam caという言及は,第8章でのkarmanが行為参与者の文脈での行為対象でしかないことを示唆します.

すなわち,kriyāと対置する文脈での kartā, karman, karaṇaという行為参与者のうちのkarmanが問題とされているのです.

一般的にkarmanという語が行為(kriyā)を意味するからと言って,この特殊な文脈でも行為(kriyā)を意味すると考えるのは無理があります.




確かに,小澤氏が持った理解あるいは疑問は,理解できなくもありません.

というのも,MMK 2.24-25においてナーガールジュナは三種(sadbhūta, asadbhūta, sadasadbhūta)のgamana(行くという行為)に言及するからです.

それと平行すると考えれば,MMK 8においても,三種は,行為対象でなく,行為と考えることもできるからです.

小澤氏は次のように述べています.


小澤 2014:22右:
ここで簡潔に二偈にまとめられた「行為者」と「行為」との九種の関係は,第8章「業と作者の考察」(karmakārakaparikṣā (sic))に至ってそれぞれを枚挙して論じられている.したがって,第8章の議論は,第2章での文脈を受けて「行為者」と「行為」の関係を主題に展開していることが想定されるが,……」



しかし,Siderits & Katsuraもそう理解したように,第8章では,行為主体と行為対象の関係が論じられています.

さらに,karmanが行為対象しか意味し得ない平行する用例がMMK 10.1にあります.

小澤氏自身,次のように原文と訳文とを示しています.

yadīndhanaṃ bhaved agnir ekatvaṃ kartṛkarmaṇoḥ/
anyaś ced indhanād agnir indhanād apy ṛte bhavet// MMK 10.1

もし薪が火であるなら,行為者と行為目的には同一性が存在することになるだろう.もし,火が薪と異なるものならば,薪なしでも存在するであろう.



なお,Siderits & Katsura 2013:110による原文(上と少し異なります;小澤 2014:29左, n. 21参照)と英訳は次の通り.

yad indhanaṃ sa ced agnir ekatvaṃ kartṛkarmaṇoḥ/
anyaś ced indhanād agnir indhanād apy ṛte bhavet//1//

1. If the fuel were identical with the fire, then agent and object would be one.
If fire were distinct from fuel, then there would be fire without fuel.



小澤氏自身,「ここでは,「薪」が「行為目的」,「火」が「行為者」とされて」と解説するように,ここでの,karmanは行為対象でしかありえません.

密接に平行する議論において,kartṛ (kāraka)と対になるkarmanが行為対象として用いられている以上,第8章におけるkartṛ (kāraka)と対になるkarmanも,行為対象とのみ理解すべきでしょう.

小澤氏の強い主張が正しいならば,ここでのkarmanについても,両義が意図されていたことになります.

つまり,

もし薪が火であるなら,行為者と行為目的/行為には同一性が存在することになるだろう.もし,火が薪と異なるものならば,薪なしでも存在するであろう.



と理解しなければいけないことになります.


しかし,薪が行為対象であって行為でないのは明らかです.
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  1. 2016/06/17(金) 07:46:25|
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