Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

月称にとってのkriyāとkarman

同じことは,月称についても当てはまります.

小澤 2014:22-23:
その第1偈の "karma"に対して,チャンドラキールティは "karturīpsitatamaṃ karma"というパーニニの規定(P 1.4.49)を引用して"karman"が「目的」を意味すると明示している(Pras 180.14).しかし一方で,第2偈ab句の註釈に際しては "
na cākartṛkaṃ karma saṃbhavati, vandhyāsūnor iva ghaṭakaraṇam"「そして,行為者のない行為は生じない.たとえば石女の息子が瓶を作るごとく」"na hy akṛtānantaryakarmaṇa ānantaryakarmakārakatvaṃ dṛṣṭam"「というのは,いまだなされていない無間業には,無間業の行為者であることを見ることはないから」(Pras181.8, 18)と「行為」を意味するようにも解説している.このような註釈のゆれは,……」



本当に,月称は,karmanの両義の間で「ゆれ」ているのでしょうか?

しかし,龍樹が行為に対してはkriyāという語を用いて,karmanと区別してくれているように,月称も,この文脈では,無用な混乱を避けるためでしょう,行為に対してはkriyāという語を用いています.

小澤氏が問題とした二文は,それぞれ,次のように解釈すべきでしょう.(akṛtānantaryakarmaṇaḥは,yena akṛtam ānantaryakarma tasyaというように,バフヴリーヒで理解すべきでしょう.)

また[一般的に],行為主体のない行為対象はありえない.ちょうど,石女の息子が瓶を作ることが[ありえないの]と同じように.

というのも,無間業を未だ作ってない者が,無間業を作る主体であることは見られていないから.



確かに,月称の最初の文章は誤解を招くものです.

というのも,この文章では,karmanとghaṭakaraṇamとが平行するように読めてしまうからです.

しかし,文脈上,ここで月称が意図しているのは,karmanとghaṭaと理解すべきでしょう.

第1偈の註釈において月称が疑いなくkarmanを行為対象と理解している以上,その直後の第2偈において,karmanを行為と理解しているという小澤氏の解釈には相当の無理があります.

第二の喩例も確かに誤解を招きやすいものですが,ここでは,無間業という罪業(adharma, cf. MMK 8.5)が作られる対象として意図されているのでしょう.

つまり,業がここでは行為対象として意図されているということです.

業が,作るという行為としてではなく,作られる対象として意図されている,ということです.




小澤氏も認めるように,第1偈への註釈において,月称は疑いようもなく,karmanを行為対象だと理解しています.

したがって,その理解が以降も続いているとするのが,全体を最も無理なく解釈できる理解です.


Prasannapadā ad MMK 8.1:
tatra karotīti kārakaḥ kartā. ... kriyata iti karma.

Cf. 『般若燈論』 ad MMK 8.1cd (T1566_.30.0080a10):
所作名業。能作名者。



同じように,karmanは,清弁によっても,行為対象と明示的に註釈されています.

第1偈のkarmanが第2偈になって突然に「行為」とも理解されるようになる,と考えることには無理があります.

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  1. 2016/06/17(金) 08:10:11|
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