次の説明には若干の疑問が生じます.
小澤 2014:23左:
このような註釈のゆれは,伝統的に動詞語根の指し示す意味が「行為」と「その果」(phala)という二側面で理解されることに由来する25.したがって,ここでもナーガールジュナはサンスクリット語の言語観を利用して,意図的に“karman” の語に「行為」と「行為目的」の両義性を持たせて第8 章の議論を展開していたといえる.
ここで小澤氏は次の二つが由来の原因・結果の関係にあると主張しています.
1.伝統的に動詞語根の指し示す意味が「行為」と「その果」(phala)という二側面で理解されること
2.このような註釈のゆれがあること,すなわち,意図的に“karman” の語に「行為」と「行為目的」の両義性を持たせること
小澤氏は,次のような平行関係を念頭に置いていたと考えられます.
vyāpāra(行為) --- phala(その果)
karman(行為) --- karman(行為目的)
しかし,このような形で二つを平行に捉えることはできません.
まず,動詞語根の意味には,vyāpāraとphalaとの両方が含まれています.
「お粥を調理する」(odanaṃ pacati)では,「調理」(pac)によって,一連の動作だけでなく,米が柔らかくなることという結果までもが表わされています.
しかし,そのことと,"karman"という語が行為と行為対象の両義を持ちうることとは無関係です.
したがって,1を由来の原因として2が導かれることはありません.
小澤氏は,karmanを「行為目的」と訳したために,phalaと同一視してしまったのでしょう.
しかし,行為対象(行為目的)と言うときのkarmanと,動詞語根の意味の一側面としてのphalaとは,ひとまず別のものです.(もちろん,間接的には関係し得ます.すなわち,柔らかくなるという結果を持つのはお粥という行為対象です.)
関係を図式化するなら,次のような感じになるでしょうか.
動詞語根の意味dhātvarthaとしての行為karman(=作用vyāpāra+結果phala)---行為対象karman
すなわち
vyāpāra(行為) --- phala(その果)
karman(行為) --- karman(行為対象)
のような平行関係ではなく,第一のkarmanの中に上の二つが含まれることになります.
vyāpāra+phala
karman(行為)--------------------------karman(行為対象)
"guṇa"という語の二つの意味である従属要素と性質, śaktiの二つの用法である,ものの能力と語の直接表示機能, そして,phala(作用の結果)とkarman(行為対象)という,本来,分けて考えるべき二つを小澤氏は結びつけて考えてしまっていることが,誤った説明の背景にあると考えられます.
スポンサーサイト
- 2016/06/17(金) 19:47:48|
- 未分類
-
-