Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

月称における二種の「相互依存」の使い分け?

小澤千晶 2006b
「清弁と相互依存の縁起― 『般若灯論』の用例を中心として―」
『印佛研』55-1, 458(55)-454(59)

小澤 2006bは,月称の相互依存に二つがあると主張しています.

小澤 2006b:457(56)-456(57):
「月称は,聖者の見る世間を表すparasparāpekṣikī siddhiḥと,増益した自性からなるparasparāpekṣayā (pra-) siddhiḥの使い分けを徹底することで,同じ「相互依存」ではあっても,有自性論に成り立つ「相互依存」と無自性の「相互依存」の区別を明確にする.」



仮に相互依存1と相互依存2とすると,次のように整理できます.

相互依存1:聖者の見る世間を表すparasparāpekṣikī siddhiḥ,無自性の「相互依存」
相互依存2:増益した自性からなるparasparāpekṣayā (pra-) siddhiḥ,有自性論に成り立つ「相互依存」



小澤 2006bによれば,月称の特徴は,相互依存1を積極的に提示する点にあります.

小澤 2006b:458(55):
「他方,月称(Candrakīrti)は,縁起した世俗を「相互依存した成立」(parasparāpekṣikī siddhiḥ)と捉えて,自身の縁起観として積極的に提示する.」



このような二種の区別は,小澤によれば,「依存」(apekṣā)という語の用法を月称が使い分けていることに基づきます.

小澤 2006b:458(55):
「月称の縁起解釈の特徴は,「依存」(apekṣā)という語の用法を使い分けることで,二種の世俗観をあらわす点にあり」




具体的には次の区別です.

小澤 2006b:457(56):
「前述の「相互依存した成立」の場合には「相互」と「成立」の語が同格で表現されていたのに対し,ここでは具格によって表現されている.これは,「智慧の目が無明という眼病に傷付けられているために,諸存在に顛倒した自性を増益して,あるものにある特殊性」(Pras 58.1-3)を増益した凡夫たちにとって,世間の成立は,その増益した自性を根拠に確立していることを意味する,成立のための作因を表す具格であるとみられる.つまり,凡夫たちにとっての世間,世俗諦はparasparāpekṣayā siddhiḥとして立ち現れる世間であり,それが無考察に確立していることから「世間的成立」(prasiddhi)とされているといえよう.」



整理すると次のようになります.(なお,小澤氏の言いたかったのは,「相互」と「成立」の語が同格で表現されていた,ということではなく,「相互依存」と「成立」の語が同格で表現されていた,ということだと推測されますので,そのように以下では訂正して理解しておきます.なぜならば,「相互依存した成立」(parasparāpekṣikī siddhiḥ)において同格なのは,「相互依存した」と「成立」だからであって,「相互」と「成立」ではないからです.)

相互依存1:「相互[依存]」と「成立」の語が同格で表現されていた

相互依存2:
[「相互依存」が]具格によって表現されている
世間の成立は,その増益した自性を根拠に確立していることを意味する,成立のための作因を表す具格である



すなわち,「相互依存1した=成立」というように同格で述べられる場合には,相互依存1となる,というのです.

いっぽう,「相互依存2によって成立」というように,成立のための作因を表わす具格で述べられる場合には,相互依存2となる,というのです.

しかも,「相互依存2によって成立」というときには,「増益した自性を根拠として,相互依存によって成立」という意味となる,というのです.

相互依存2の根拠となった月称の原文について,小澤 2006bは,次のように和訳を示しています.

小澤 2006b:457(56):
「世間的事物たちは,道理なきままに,智慧の目が無明という眼病に傷付けられている一切世間にとっては,世間的に成立するに至っている(prasiddhim upagatā).それゆえ,〔それら諸事物は〕ただただ相互依存によってのみ世間的成立(parasparāpekṣayaiva kevalaṃ prasiddhim)に至ると,凡夫たちは〔有自性論的に〕承認している.」



ここで小澤氏は最後に「有自性論的に」という語を補っています.

しかし,この語を補うことは,月称の考えに反します.

なぜなら,月称にとって世間的事物というのは,凡夫たちが有自性論的に承認しているものではなく,前半で述べられるように,道理なきままに成立するに至っているものだからです.

つまり,凡夫は,有自性か無自性かということは全く考えていません.

たとえば次のような文章が月称にはあります.

Prasannapadā §43-44(MacDonald p. 171):
loko hi svataḥ parata ity evamādikaṃ vicāram anavatārya "kāraṇāt kāryam utpadyate" ity etāvanmātraṃ pratipannaḥ. evam ācācyo 'pi vyavasthāpayām āsa.

MacDonald p. 99:
for the world, not having launched an investigation (vicāra) [into whether things arise] from self [or] other, etc., presumes [merely] this much: an effect arises from a cause. The Master [Nāgārjuna] has also determined it thus [i.e., that arising from self is negated without qualification].



小澤氏自身,「無考察に確立している」と述べています.

以上から,小澤氏の言う,「増益した自性からなるparasparāpekṣayā (pra-) siddhiḥの使い分け」というもの,すなわち,相互依存2の存在は,小澤氏の示した限りでは,文献証拠を欠くことになります.

なぜなら,引用された月称の原文には,「増益した自性」という語はないどころか,むしろ,それを前提とすることは否定されることが十分に推測されるからです.

また,具格の存在を根拠として有自性論に成り立つ相互依存を主張する場合,次の文章は,どのように理解すればよいのでしょうか.

Prasannapadā §104 (MacDonald, pp. 261-262)
evaṃ pṛthivyādīnāṃ yady api kāṭhinyādivyatiriktaṃ vicāryamāṇaṃ lakṣyaṃ nāsti, lakṣyavyatirekeṇa ca lakṣaṇaṃ nirāśrayam, tathāpi saṃvṛtir eṣeti parasparāpekṣāmātrayā siddhyā siddhiṃ vyavasthāpayām babhūvur ācāryāḥ. avaśyaṃ caitad evam abhyupeyam.



論点となる箇所は次のように英訳されています.

MacDonald §104 (p. 257):
... the Masters have determined that there is establishment (siddhi) by virtue of an establishment (siddhi) [that consists in] mere mutual reliance (parasparāpekṣā).



ここでは,具格が用いられているにもかかわらず,その相互依存は,相互依存2ではなく,むしろ,相互依存1の特徴があてはまります.

以上から,同格と具格との使い分けによって二種の相互依存を月称が区別している,という小澤 2006bの主張は成り立たないことになります.

最も大きな問題は,相互依存2の文献証拠とされる引用文の訳文に,「有自性論的に」という語を小澤氏が補って理解していることです.

月称にとっての相互依存とは,mātraやkevalaという語の使用から分かるように,有自性や無自性といった道理を問わないレベルのものだと考えられます.

相互依存というのは,学問(シャーストラ)的には忌避されるべきものです.

しかし,学問的な探求に入ってない世間的なレベルでは許されるものであり,そのまま認められるべきものだと,月称は考えていた,と推察できます.

なお,サンスクリット語の表現としてのみ見たとき,

1. parasparāpekṣikī siddhiḥ
2. parasparāpekṣayā siddhiḥ

のいずれも同じ意味を表示していると考えられます.すなわち,いずれも等しく,

0. parasparāpekṣayā sidhyanti

ということを表わしていると考えられます.次の例が参考になるでしょう.

Prasannapadā §123 (MacDonald, p. 275)
tad evaṃ pramāṇacatuṣṭayāl lokasyārthādhigamo vyavasthāpyate//
tāni ca parasparāpekṣayā sidhyanti/ tasmāl laukikam evāstu yathādṛṣṭam.

MacDonald p. 292:
Thus the world's apprehension of objects is in this way established as being from the four-fold means of valid cognition. And those [means of valid cognition and their objects] are established in reliance on each other. Therefore, just let worldly [things] be, the way [they are] observed.



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  1. 2016/06/19(日) 18:47:56|
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