Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

MMK 5.6c: bhāvābhāvavidharmā

Siderits and Katsuraによる中論英訳は,その基となった英訳が龍谷の雑誌に掲載されています.

新訳では一部に改訂が施されているようです.

しかし,次の改訂は,いまひとつ理由が不明です.

まずは旧訳を確認.

MMK 5.6cd:
bhāvābhāvavidharmā ca bhāvābhāvāv avaiti kaḥ//

Siderits and Katsura 2005-2006 (『インド学チベット学研究』9/10), p. 155
And who is there who, lacking the nature of either an existent or a non-existent, cognizes what is both existent and non-existent?


旧訳には特に問題はありません.

強いて言えば,dのbhāvābhāvāvは, 「存在と非存在とを」であって,「存在かつ非存在であるものを」ではないでしょう.

いっぽう新訳は以下の通り.

Siderits and Katsura 2013: 63:
And existent and nonexistent are contradictory properties; who cognizes something, whether existent or nonexistent?


なぜ,このように改訂されたのか,理解に苦しみます.

月称も,存在・非存在とは異質のparīkṣakaḥに言及しています.

bhāvābhāvavidharmāは,明らかにkaḥに係っています.

チベット訳に多く依拠する寺本訳は前後を切ってしまっています.

寺本 p. 88:
「存在と,無存在とは不相應の法なり、誰によりて存在と、無存在とを知るや」。


いっぽうWalleserは問題がありません.

Wer, von Sein und Nichtsein verschieden, erkennt sein und Nichtsein?



チベット訳においても,

dṅos daṅ dṅos med mi mthun chos
gaṅ gis


は,切り離さずに理解すべきでしょう.

漢訳も,詩節(5.6cd)部分の

T1564_.30.0007c17:     有無既已無 知有無者誰



は,少し端折った訳ですが,青目釈は,人に係るのを前提にしていることが読み取れます.

T1564_.30.0007c20: 當有無。眼見耳聞尚不可得。何況無物。問
T1564_.30.0007c21: 曰。以無有有故無亦無。應當有知有無
T1564_.30.0007c22: 者。答曰。若有知者。應在有中應在無中
T1564_.30.0007c23: 有無既破。知者亦同破



般若灯論の中に出る詩節も同様と読み取ることができるでしょう.

T1566_.30.0072b04:     與體無體異 何處有解者



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  1. 2016/06/24(金) 18:50:07|
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