Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

MMK 5.2:定義の問題

MMK 5.2の梶山訳は少し違和感を抱かせます.

MMK 5.2
Siderits and Katsura 2013:60
alakṣaṇo na kaścic ca bhāvaḥ saṃvidyate kva cit/
asaty alakṣaṇe bhāve kramatāṃ kuha lakṣaṇam//2
Nowhere does there exist any such thing as an existent without defining characteristic.
An existent devoid of defining characteristic being unreal, where would a defining characteristic function?



S & Kの英訳は特に問題ありません.

これと比べると梶山訳は,少し調子が異なります.

梶山 1998 (1969):128-129(梶山雄一・上山春平『空の論理〈中観〉』):
ラクシャナはものに備わっている特質であるが、同時に特質づけるものとしての定義、つまり、ことばの意味をも表わす。ラクシャナは定義されるものである。ものの特質といっても、そのものに対する人間の定義、理解を別にしてあるわけはない。空間の特質は、抵抗性のないもの、という定義であり、地の特質は、堅いという性質、という定義である。

空間の定義より前にはいかなる空間も存在しない。もし定義よりも前にあるとすれば、それは定義されていないものとなってしまおう。(五・一)
けれど定義されていないものなどはどこにも存在しない。定義されていないものが存在しないときに、定義はどこにおいて行われようか。(五・二)
定義されていないものにおいて定義は行われない。定義されているものにおいても行われない。定義されているものと定義されていないものと異なった〔存在もしない〕ものにおいても行われない。(五・三)

われわれは知覚によっては、物体や空気や光と別に空間そのものを見はしない。空間とは抵抗性をもたないで物体に場所を与えるもの、という定義がされてはじめて,思惟によって空間を知る。定義以前には、いいかえれば、見ているかぎりでは空間は存在しないし、定義されていない空間は我々にとって存在しない。



もちろん,龍樹から見れば,定義的特質という客観的な存在は,所詮は人間の分別が生み出した主観的な存在にすぎず,言葉の意味たる定義にすぎないということになるでしょうが,アビダルマから見れば,定義的特質は客観的に存在するものであり,まさに,その存在の本体であるものです.

そこを飛ばして,いきなり,龍樹自身の視点から,言葉の意味という側に引き付けてラクシャナを説明するのは,少々危険です.

というのも,帰謬論法の醍醐味は,「乗り突っ込み」にあるからです.

アビダルマ自身が前提とする考え方に沿って,そのシステムの崩壊を促す論法が帰謬です.

だとすると,ここで,ラクシャナをいきなり言葉の意味とするのは,結論を急ぎすぎることになり,また,帰謬論法の醍醐味を失わせることになりかねません.

やはり,客観的に存在する定義的特質として記述すべきです.

「定義されていないものなどはどこにも存在しない」

という文は,原文を直訳するならば,英訳にもあるように,

「定義的特質を持たない何らかの存在がどこかに存在することはない」(=どこにも定義的特質を持たない存在などない)

となります.

インド哲学において定義的特質であるラクシャナは,客観的な特徴・特質のことです.

決して,定義文のことではありません.

また,定義文の意味という概念的なものを第一義的に指すわけでもありません.(もちろん,それは,言葉の意味を何と考えるか,それぞれの学派のシステム次第でしょうが.)

普通の語義として,ラクシャナは,マーク,印ということです.

印と印づけられるものが,定義的特質ラクシャナと,それによって特質づけられるものラクシヤにあたります.

龍樹がここで意図しているのは,梶山訳の

「定義されていない空間はわれわれにとって存在しない」

というのとは少しニュアンスが異なります.

無抵抗という定義的特質を欠くような虚空は,そもそも虚空ではないから,定義的特質を持たない存在など,どこにもない,というのが彼の言わんとすることです.

「定義されていない」というような,定義づけの主体を予想させる動的なニュアンスを感じさせる語(例えばalakṣyamāṇa)はここにはなく,あるのは,単に,「ラクシャナのない」というalakṣaṇaという語だけです.

定義づけの主体を感じさせる語はここには表れていません.

梶山訳だと,ニュアンスが違ってきてしまいます.




梶山雄一の凄みは,龍樹の言葉を,自分自身の理解を通して消化した上で,解説できる点にあります.

作者の言葉の上っ面に振り回されない一流たる所以です.

自分の頭で考えて,理解して,十分に消化した上で,自分の言葉で,ひとつひとつの説明を紡ぎ出しているという印象を強く受けます.

ここでも,龍樹になりきって,自身の理解を通した上で,龍樹の言葉を解説してくれています.

しかし,今の場合,龍樹になりきりすぎたあまり,アビダルマの実在論的な視点をすっ飛ばしてしまった,という感じがします.

スポンサーサイト
  1. 2016/06/28(火) 08:10:39|
  2. 未分類

プロフィール

Aghora

Author:Aghora

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

FC2カウンター

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する