Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

MMK 5.4:定義の行なわれないところ?

梶山の理解が,原文が意図するものから乖離しつつあるのを見ました.

次の説明は,その乖離の延長線上にあるもので,明らかに龍樹の意図したこととは異なります.

梶山 130
定義されているものに定義はおこらず、定義されていないものにも定義はおこらない、ということは、ことばとその対象との関係を的確に表わしている。…(中略)…。もし、たとえば机ということばや、本を読んだりものを書いたりする台という定義が特定の一つの机に固着して離れないならば、われわれは他の同種のものを机と呼べなくなる。だから、定義されているものに定義は行われず、存在しないのである。しかし、また、まったく定義されていないものにも定義は存しない。



無抵抗という特質1を既に持っている虚空に更にもう一つの無抵抗という特質2が働くことは無駄だし,不可能だし,もしあえて働くというのならば,無限連鎖となってしまう,というのが龍樹の意図するところです.

月称もそのように理解しています.

逆に,無抵抗という特質を欠いた虚空というのは,そもそも存在しない(つまり特質の無い存在はない)のですから,存在しないものに対して無抵抗という特質が働くことはありえません.

すなわち,特質がないものに特質が働くこともないわけです.

以上から,特質を持っていようが持っていまいが,その存在に特質が働くことはない,ということが言えることになります.

MMK 5.4は,この文脈にあります.


Siderits and Katsura 2013: 62:
lakṣaṇāsaṃpravṛttau ca na lakṣyam upapadyate/
lakṣyasyānupapattau ca lakṣaṇasyāpy asaṃbhavaḥ//4
And if there is no function of the defining characteristic, it does not hold that there is a bearer of defining characteristic.
And if a bearer of defining characteristic does not hold, a defining characteristic is likewise impossible.



S & Kの英訳に問題はありません.

いっぽう,梶山の以下の和訳と解説は,原意からは,ずれたものとなってしまっています.

梶山 130-131

定義の行なわれないところには定義の対象はありえない。定義の対象のないところには定義もありえない。(五・四)
だから、定義の対象も存在しないし、定義も存在しない。定義と定義の対象とを離れたいかなる事物もまたない。(五・五)


ナーガールジュナがいっていることは、ことば、その意味としての定義に厳密に一致するものはないということである。ことばがそれと一致するものをもつならば、どうしてその同じことばが他のものに適用されるのか。しかしまったく一致しなければ名づけも定義も行うことができない。ことばとその対象との関係は同一でもなく別異でもない。



ラクシャナを定義と訳したことから,以上のような乖離が始まってしまったように思います.

龍樹が言っていることは,梶山が解説するような複雑な事態ではありません.

既に定義的特質を持つものに更に定義的特質が働くとするならば二つの定義的特質があることになってしまう,というような論法が龍樹の頭にあると思われます.

このような論法は,すでに,「行く者が行く」とすると二つの「行く」があることになる,という第二章の議論で見たところです.

また,「行かない行く者」というのがありえないように,「特質の無い存在」というのもありえない,ということです.

だから,いずれの場合も,「定義的特質が発動する(向かっていく)」ことがないのです.

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  1. 2016/06/28(火) 18:41:59|
  2. 未分類

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