Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

PV 3.346の解釈

護山真也 2015
「仏教認識論と〈所与の神話〉」
信州大学人文科学論集2, 43-56

護山 2015: 45--46:
tadārthābhāsataivāsya pramāṇaṃ na tu sann api/
grāhakātmā 'parārthatvād bāhyeṣv artheṣv apekṣyate//PV 3. 346//

そのとき,この(認識が)対象の現れを有すること(arthābhāsatā)が,認識手段である。(その認識はその現れ)以外のものを対象としない以上,把握者としての側面は残されながらも,外界にある諸対象に依拠することはない



護山の後半部の解釈(特に「依拠することはない」という箇所)は明らかに問題を孕んでいます.

サンスクリットの構文を見る限りでは,「把握者としての側面は(grāhakātmā)は依拠されない(apekṣyate)」となっています.

この点,戸崎の和訳は正確です.

戸崎 1985: 31:
その場合,それ(=知)の対象顕現性こそが量である。能取の自体は,存在するけれども,外境対象に関しては量とみなされない。なぜならば,他(=外境)を対象としないから.



戸崎が正しく捉えたように,「能取の自体は,外境対象に関しては量とみなされない」ということ,直訳すれば,「能取の自体は,依拠されない」という構文理解が正しいのです.

護山の理解では,apekṣyateという受け身が,あたかも,apekṣateという能動であるかのように訳され理解されてしまっています.

ところで,'parārthatvādの解釈ですが,

1. {a-parārtha}-tvāt 他を対象とするものではないから(能取の自体は外界対象を対象としないから)
2. {apara-artha}-tvāt 他を対象とするから(能取の自体は[認識手段の対象である外界対象とは]別のもの(認識それ自体)を対象とするから)

という二通りが実際には可能です.(護山も戸崎も2の可能性は考慮していません.)

護山は戸崎に従って1としています.

私は2が正しいと考えます.ジネーンドラブッディの説明を参照のこと.

PSṬ 72.8--9: ayogas tv aparārthatvāt. grāhakākāro hy ātmaviṣayaḥ kathaṃ bāhye ’rthe pramāṇaṃ syāt. na hy anyaviṣayasyānyatra prāmāṇyaṃ yuktam.
片岡 2011b:38: 「ありえないのは,他のものを対象としているからである.すなわち,把握主体の形象は,それ自体を対象とする以上,どうして,外界対象を認識する手段であろうか.というのも,他を対象とするものが,それとは別のものを認識する手段となるのはおかしいからである.」



詳細については,片岡 2011e: 「Pramanasamuccayatika ad I 8cd-10和訳」の38頁,および,片岡 2010dを参照.

また,PV 3.346の位置づけ,および,ダルマキールティとディグナーガの解釈の相違については,片岡 2011bを参照.

ダルマキールティにとって最大の問題は,認識手段と結果という両者の扱う対象が一致すること,ズレてないことを示すことでした.

クマーリラからの批判を回避する必要があったのです.(片岡 2010d

PV 3.346以下では,認識手段である〈対象の現れを持つこと〉,および,結果である確定知のいずれもが,外界対象に向かっていることが示されています.

経量部説においても,唯識説と同様に,確かに,自己認識の構造は含まれています.

しかしながら,唯識とは違って,外界対象に向かっている,ということを示す必要があったのです.

したがって,唯識説と違って,把握主体の形象ではなく,対象の現れを持つことが認識手段とされ,しかも,結果についても,自己認識のほうではなく,確定知が結果として立てられるのです.

Conclusion:
Moriyama's understanding of apekṣyate (which is different from Tosaki's) is problematic.

Following Jinendrabuddhi’s understanding, it is probably better for us to interpret aparārthatvāt as “because it has something else, i.e., cognition itself, as its object” ({apara-artha}-tvāt) and not “because it is not one that has something else, an external object, as its object” ({a-parārtha}-tvāt).

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  1. 2016/07/08(金) 08:10:53|
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