Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

PV 3.129-130


護山2015: 49:
asyedam iti sambandhe yāv arthau pratibhāsinau/
tayor eva hi sambandho na tadendriyagocaraḥ//PV 3.129//
viśadapratibhāsasya tadārthasyāvibhāvanāt/
vijñānābhāsabhedo hi padārthānāṃ viśeṣakaḥ//PV 3.130//

実に,「これ(=知覚対象)にはこの語がある」と関係づける場合,その二つの対象(知覚対象と語)が現に顕現していれば,他ならぬ両者に(直接的な)関係がある。だが,その(語を適用する)時点では,感覚される対象(=知覚対象)はすでにない。その時点では,鮮明な顕現をもつ対象は現れていないからである。というのも,認識の顕現(=形象)の違いが,諸事物を個別化する要因だからである。



護山による説明は以下の通り.

p. 49
語が対象を分節化するという常識的な理解に反し,語の適用に先立つ知覚の場面で,形象が事物を個別化する。知覚の度にその都度,対象は個別化されている以上,それに語が適用されることはない。知覚の場面では,前言語的に,対象が形象により切り分けられている。このような個別化の働きを担う形象は,言わば「原初的な概念」とでも呼ぶべきものであろう。興味深いことに,セラーズもまた,対象の気づきに先立つ,「概念」の働きを強調する。



ここでの護山の理解はダルマキールティのシステムから考えて疑問があります.

「前言語的に,対象が形象により切り分けられている」とはどういうことでしょうか.

A.対象の区別に基づいて形象の区別がある.
B.形象の区別に基づいて対象の区別がある.

という二つの可能性のうち,AではなくBである,という主張になります.

しかし,ダルマキールティの知覚理論はAに立つものであって,Bを認めるものではありえません.

因果関係は一方向です.

したがって,護山が文献証拠として提示するPV 3.130cdの護山解釈(戸崎解釈と異なることがn. 11に註記される)は問題を孕んでいると言わざるを得ません.

大きな問題は,果たしてpadārthaが,護山が理解したように,諸事物=外界対象=実在=独自相を指しているのか,ということです.

しかし,直訳するとpadārthaは「語の対象」であり「語の意味」です.

すなわち,これが実在=独自相を指していると理解するのは疑わしいと思わざるを得ません.

語の意味,語の対象と取るべきではないでしょうか.

すると,問題の文章は,特に問題なく理解できるようになります.

すなわち,「認識内の現れの違いが,語意を区別づけるものだ」,というだけの内容となります.

これは,それ以前の記述と整合性を持ちます.

すなわち,ここで描かれているのは,関係づけられるべき語や語意というのが,独自相ではなく,あくまでも,認識内の形象である不明瞭な現れに過ぎないということです.

ダルマキールティは

「現れている対象,その両者のみに関係づけがある」

と述べ,さらに,感覚器官の対象である明瞭な現れをもつ対象が関係づけにおいては認識されていないことを指摘しています.

つまり,語意関係習得において現れているのは不明瞭な現れを持つ対象,共通相なのです.

直前のダルマキールティの発言を考慮すべきでしょう.

戸崎 1985: 208:
viṣayo yaś ca śabdānāṃ saṃyojyeta sa eva taiḥ// 128
そして言葉の対象のみがそれら(=言葉)と結びつけられるであろう。



普通に考えれば,padārthaとダルマキールティが言っているのは, śabdānāṃ viṣayaḥだと考えられます.

以上から,護山のPV 3.130cd理解は問題を孕んでおり,また,それに基づく上記の主張は極めて疑わしいと私は考えます.
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  1. 2016/07/08(金) 20:14:59|
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