Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

śivam, not sivam

山本 2011: 485
yaḥ pratītyasamutpādaṃ prapañcopaśamaṃ sivam/
deśayāmāsa saṃbuddhastaṃ vande vadatām varam//



こちらも,De Jong 1994(1977)で「正解」を確認しておきましょう.

yaḥ pratītyasamutpādaṃ prapañcopaśamaṃ śivam/
deśayāmāsa saṃbuddhas taṃ vande vadatā varam//



三箇所違いがあります.

まず,「シヴァ」の綴りは,sivamではなくśivamです.

また,s tの間にスペースが必要です.

また,vの前のmはṃになります.

吉祥を意味するśivamの綴りを間違うことは実に不吉な間違いです.

スペルミスというのは,英語でもそうですが,やはり,当該言語への習熟度を如実に表わす指標となりえます.

したがって,学会論文においては,スペルミスのないよう,細心の注意を払うべきです.

それは決して「どうでもいいこと」として許されるものではありません.少なくとも学界のペーパーにおいては.




その他,誤>正で示すと,

山本 2011: 480:
Vigrahavyavartanī > Vigrahavyāvartanī

480
√hr > √h

475(二箇所)
prajñāpāramītā > prajñāpārami
prajñāpāramītā > prajñāpārami

474
pāramītā > pārami

サンスクリット語の原義を論じる文脈で,般若波羅蜜多(しかも意味は「智慧の完成」)のサンスクリットのスペルを間違えるのは,さすがに皮肉としか言いようがありません.

正しいスペルも知らない人にetymologyを論じて欲しくないと多くの研究者は思うことでしょう.たとえその直観的な指摘があたっていたとしても.

「本稿は「印度学仏教学」や「真宗学」の論文ではなく,むしろ「<反仏教学>としての仏教学の論文であり……本稿の「取り扱い」および「服用」に際しては,その点に重々注意されるよう,あらかじめお願いしておきたい」(山本 2011: 493)とのことですが,しかしながら,だからといって明らかなスペルミスが許されるというわけではないでしょう.学界という場において発表されたペーパーである以上は.

山本 2011: 473
実践ために>実践ために

468
教える(jñapayate) > 教える(jñāpayate)

456
親鸞が「仮」の開顕が重視するのは>親鸞が「仮」の開顕重視するのは

445, n. 24
vyavahārasatyamanagamya > vyavahārasatyam anāgamya

445, n. 25
vyavahāramanāśrtya > vyavahāram anāśritya

444, n. 32
nityapradīpta eva syādpradīpanahetukaḥ > nityapradīpta eva syād apradīpanahetukaḥ

443, n. 35

evameva nirmitakopamena [madīyena] śūnyena vacanena nirmitakastrīsādṛśeṣu [sarvabhāva]niḥsvabhāveṣu yoyaṃ svabhāvagrāhaḥah sa nivartyate sa pratiṣidhyate
>
evam eva nirmitakopamena [madīyena] śūnyena vacanena nirmitakastrīsadṛśeṣu sarvabhāva]niḥsvabhāveṣu yo 'yaṃ svabhāvagrāha sa nivartyate sa pratiṣidhyate

443, n. 36
prapañcātīitamavyayam > prapañcātītam avyayam



次のアマラコーシャ注の和訳は多くの問題を孕んでいます.

442, n. 42
概念説明が顛倒している。たとえば,知識からprapañcaへの顛倒がおこるように。細かな記述というのは,ことばの過剰なることである。たとえば過剰なprapañcaにより(細かな記述があると言われるように)。語に対応した事物のprapañcaなどでは,prapañcaにおいて言葉が過剰であれば,語義は字義通りでなくなる(atasmin taditi pratyayo viparyāsaḥ /yathā -- `prapañcasya layo jñānāt’ iti /vistaraḥ śabdabāhulyam /yathā --`alamatiprapañena’ iti / padārthaprapañcaḥ ityādau śabdavyatirikte prapañce śabda anupacārikaḥ)」



まず,最初

atasmin taditi pratyayo viparyāsaḥ

ですが,「概念説明が顛倒している」と訳されていますが,直訳すると,「非XをXとする理解が顛倒である」となります.

また,テクストも,分かち書きすれば,atasmin tad iti pratyayo viparyāsaḥとなります.

次の

yathā -- `prapañcasya layo jñānāt’ iti

を「たとえば,知識からprapañcaへの顛倒がおこるように」と訳されていますが,「たとえば,「知識によりプラパンチャ(=顛倒)がなくなる」という[表現がある]ように」とでも訳すべきでしょう.

yathā --`alamatiprapañena’ iti

ですが,まずyathā --`alam atiprapañcena’ itiとスペースを入れ,なおかつ,スペルミスを直します.

「たとえば過剰なprapañcaにより(細かな記述があると言われるように)」

と訳されていますが,正しくは,

「たとえば,「過剰なプラパンチャ(詳述)はもう十分だ」という[表現がある]ように」

とでも訳すべきでしょう.alam + instrumentalで,「~はもう十分」という構文です.

その次の和訳も全く要点を得ていませんが,「詳述はもう十分」でしょう.
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  1. 2016/07/09(土) 11:17:48|
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