Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

世界を創造した神は存在するのか?

インド古典文献に「創造主の存在論証」というトピックがあります.

世界の創造・存続・帰滅を司る一者としての神の存在論証です.

とくに創造神たる一者の論証が焦点になっています.

二つ,メインとなる推論式があります.

主張:この山などには作った者がいるはずだ.
理由:結果だから.
喩例:壺などと同様に.

結果である壺などには,陶工という作者がいます.つまり,「結果→作者」が推論できます.同じ図式で考えると,山なども結果である以上,作者がいるだろう,という推論です.

すぐに気がつくように,果たして壺と同様の意味で山などは「結果」と呼べるのだろうかという疑問が湧きます.

普通に考えて,人為の結果(人工物)と自然(非人為)の結果(自然生成物)という二つは区別されるべきでしょう.

その他にも次の推論式があります.

主張:この山などには作った者がいるはずだ.
理由:配列があるから.
喩例:壺のように.

壺は部分の組み合わせからできています.

つまり,レゴを組み合わせるように,部分から成っています.

部分を組み合わせる人がいるはずだということになります.

この図式を当てはめて考えると,ある形状・配列を有している山など(例えば美しい形をした富士山)にも,作者がいるはずだ,ということが推論できます.

キリスト教神学でいう「デザイナーとしての神」と同じ発想の推論です.

デザインが現に目の前にあるからには,背後にデザイナーとしての神がいるはずだ,という推論です.

ここでも,問題は,果たして,人為のデザインと,自然にできたデザイン(というか形)とが同じかということです.

つまり「配列」といっても,それは単に,同音異義語ではないか,という疑問がでてきます.

人為の配列
非人為の配列

の二種類に,たまたま,同じ「配列」という語を適用しているだけで,実際には,二つは区別すべきではないか,という疑問です.

前者は作者を予想させますが,後者は予想させないのではないか,という突っ込みが可能なわけです.

インド古典の世界では,

1.主宰神を認める学派:ニヤーヤ学派など
2.主宰神の存在を認めない学派:ミーマーンサー学派,仏教

が中心となって議論を進めてきました.

面白いことに,バラモン教学のミーマーンサーと,仏教とが,ここでは意見を同じくしています.

ダルマキールティも,クマーリラの見解を前提として援用している様子です(H.クラッサーによる見方).

ジャヤンタの主宰神論証──Nyayamanjari「主宰神論証」定説部の和訳── 『哲学年報』(九州大学文学部)69, 17-69.
http://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/handle/2324/16928/pa017.pdf
神を否定する方法:Nyayamanjari「主宰神論証」前主張部の読解.『哲学年報』(九州大学文学部)68, 27-71.
http://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/handle/2324/13925/pa027.pdf

"Critical Edition of the Isvarasiddhi Section of Bhatta Jayanta's Nyayamanjari." 『東洋文化研究所紀要』148, 350(79)-297(132).
http://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/dspace/handle/2261/1973
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  1. 2016/08/16(火) 18:49:14|
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