Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

唯識部会

9 月 4 日(日) 午前の部(9:00 ~ 12:00)

1. 瑜伽行派の心識論における tajjo manaskāraḥ 再考 楊   潔(東京大学大学院)

2. スティラマティ『五蘊論釈』が論及する三世実有説について 清水 尚史(東京大学大学院)

3.『瑜伽師地論』「摂決択分菩薩地」における不一不異説 那須 円照(龍谷大学仏教文化研究所客員研究員)

4.『瑜伽論』摂決択分の梵文注釈書断簡について 崔  珍景(ミュンヘン大学研究員)

5.『菩薩地』における「余れるもの」 本村 耐樹(名古屋大学非常勤講師)

6. 初期唯識文献における「他人の分別」 高橋 晃一(東京大学特任研究員)

7. 複合語 abhūtaparikalpa は karmadhāraya か 金  俊佑(佛教大学大学院)

8. Prajñāpāramitopadeśa におけるアーラヤ識 早島  慧(龍谷大学非常勤講師)

9. 初期唯識思想における「外のアートマン」についての一考察 北野新太郎(九州大学非常勤講師)




金氏の発表.

結論はその通りです.

karmadhārayaではなくtatpuruṣaしかありえません.

abhūtaparikalpaについては,abhūtasya parikalpaḥというtatpuruṣa解釈しかないと私自身は当然のこととして前提としていましたが,研究史を見ると,意外にも,karmadhāraya を前提としている記述が見られるのには驚きあきれました.

長尾先生もどうしちゃったのでしょうか.

まったく不思議です.

金さんも指摘していますが,教理的にも,parikalpaはparatantraとして有でないといけないのですから,無たるabhūtaでないのは当然です.

金さんの発表に対して斎藤明先生から,athavāを挟むことで両方の可能性があるのではないか,今一度テクストを確認したらどうか,という意見がありましたが,金さんが引用したところにathavāはありませんので,スティラマティが二つの解釈の可能性を示しているという可能性はないでしょう.

つまり,

1.abhūtaparikalpaという合成語はkarmadhārayaのみである.
2.abhūtaparikalpaという合成語はtatpuruṣaのみである.
3.abhūtaparikalpaという合成語には両方の解釈可能性がある.

という三つの可能性があるでしょうが,正解は,いわずもがな2でしょう.

3の可能性は,スティラマティを問わず,誰に関してもありえないでしょう.

三性説の基本構造を考えれば,そもそも,abhūtaという無と,parikalpaという有とを対立させるという発想があるのですから,parikalpaが無になってしまっては,元も子もありません.

そもそも,学会発表するほどもなく当然のことだと私は思っていましたが,会場の雰囲気を見ていると,案外そうでもないし,しかも,先行研究を見てみると,確かに,曖昧なままに放置されていることが多いようですし,それどころか,長尾先生は1だと考えています.

会場から金さんの発表にたいして疑問があがったことのほうが,私には驚きでした.

唯識の研究史の積み重ねには敬意を払うべきものが有りますが,サンスクリットの理解に関して,案外,基本的なことが抜け落ちている場合があるのかもしれません.

やはり,サンスクリットを読んで感じて疑問に思ったことを素直に疑問として立てるのは重要だと思いました.

「虚妄分別」という漢字の感じから,「虚妄な分別」などというkarmadhāraya解釈を導いてしまう,「漢訳に誘導された誤り」の一例ということになるでしょうか.

日本語に訳すときは,解釈が明らかになるように,格関係をしっかりと訳すべきでしょう.

「虚妄の分別」だと,やはり,karmadhārayaの可能性も残してしまいますから,「虚妄なるものの分別」とはっきりと訳しておくべきでしょう.

にしても,こんな小学生レヴェルからやり直さないといけないとは,とほほです.

サンスクリットであれば,この合成語を見れば,自然とタトプルシャで解釈するはずです.

逆に,abhūtaḥ = parikalpaḥというように同格であれば,バフヴリーヒなどの凝った解釈をするほうが自然となります.

(例えば,asatpratipakṣatvamというニヤーヤのテクニカルタームがありますが,この中のasatpratipakṣaはバフヴリーヒです.「無い対抗主張」ではなく,「対抗主張を持たないものであること」「それに対する対抗主張がない,そのような主張であること」となります.)

ところが,「虚妄分別」という漢字だけを眺めるなら,唯識の教義を何も知らない普通の日本人にアンケートすれば,修飾語と取って,カルマダーラヤと解釈するでしょう.

サンスクリットの感覚を大事にし,常にそこに戻らないと,思わぬ所で足を引っかけられるということです.




「小学生」と言えば,,,,

マドラスのマイラポール,サンスクリット・カレッジ近くのジャヤラクシュミーというサンスクリット本屋.

いつものように,店内一杯のサンスクリット本をあれこれと物色していました.

そこへ,小学生とおぼしき小さい子が入ってきました.

そして,開口一番

「おばちゃん,タルカサングラハある?」

と買っていきました.

10RSほどの,ぺらっぺらの入門教科書です.

こんな小さい子がタルカサングラハを読むのかと,びっくりしたものです.

きっと,学校で全文暗唱させられるのでしょう.




カルマダーラヤではなくタトプルシャ,という引っかけ問題でいくと,四聖諦の聖諦ārya-satyaの関係も同じです.

聖なる諦と訳すと間違い.

普通は,聖者達にとっての諦です.

しかし,日本語の感覚で行くと,holy truthと解釈してしまうのは仕方ないでしょう.
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  1. 2016/09/06(火) 19:02:58|
  2. 未分類

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