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Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

アルチャタのダルマキールティ称讃


後8世紀カシミールの仏教論理学者アルチャタ(Arcata=Dharmakaradatta: 710--770 AD, dated according to Funayama 1995)は,ダルマキールティの『因一滴』への注釈冒頭において,ダルマキールティの著作を称讃しています.

『因一滴注』Hetubindutika 1.10--11

varaM hi dhArmmakIrttiSu carvviteSv api carvvaNam/
niSpIDitApi mRdvIkA nanu svAduM jahAti kim//

ましだからだ!(varaM hi) 
ダルマキールティのものについては (dhArmmakIrttiSu) 
たとえ(くちゃくちゃ噛んで)味わわれた後でも (carvviteSv api) 
(くちゃくちゃ噛んで)味わうのは (carvvaNam)

圧搾されたからといって (niSpIDitA^api)
(赤)葡萄が (mRdvIkA)
いったい (nanu)
甘さを (svAduM) 
捨てる (jahAti) 
というのか (kim)

気持ちは分かりますが,語源を考えると,あまり綺麗なイメージではありません.(ただしアランカーラでは,情感を「味わう」というのにcarvaNaを用います.なおcarvitacarvaNaは「噛んだものを噛む」chewing the chewedというわけで,無駄な繰り返しのことです.)

先行するダルマキールティの注釈家達が,葡萄の房であるダルマキールティの著作群をくちゃくちゃ噛んだあとで,さらに,アルチャタがくちゃくちゃ噛みなおして,甘い汁を抽出して注釈するのですから.

『因一滴注』を読む我々はどうなるのでしょうか?

「くちゃくちゃ噛まれた葡萄を更にくちゃくちゃ噛んだ後に,さらにくちゃくちゃ噛む者」となる復注釈者ドゥルヴェーカミシュラ(Durveka Misra)によると「モノに喩える修辞法」prativastUpamAlaGkAraだそうです.

なお『アマラの辞典』によれば,mRdvIkAはgostanIとも言うそうです.

ちなみに,ヴァスバンドゥ(世親)によれば,「悪い田地」においても良い種子からは良い結果が生まれる(真諦:惡田有好菓。菓種不倒故;玄奘:惡田有愛果種果無倒故),つまり,盗人に布施をしても結果はいい,という文脈で,葡萄が登場します.

Abhidharmakosabhasya ad 4.121cd:
kukSetre 'pi phalasya bIjAd aviparyayo dRSTo mRdvIkAbIjAn mRdvIkAphalam evotpadyate madhuraM
「悪い田地でも,果実は種子と逆ではないのが見られる.葡萄の種子からは,葡萄の果実のみが,生じる,甘いのが.」

真諦:於惡田見果。從種子無倒。謂從蒲桃種子。唯蒲桃子生。其味甘美。

玄奘:現見田中種果無倒。從末度迦種末度迦果生。其味極美。


真諦はmRdvIkAに蒲桃子をあてていますが,玄奘は末度迦としています.玄奘も蒲桃という訳語を用いていますが,それはdrAkSAphalaの訳語に当てています(AKBh ad 1.44ab).真諦はdRkSAにも蒲桃子を当てています.

『アマラの辞典』ではmRdvIkAの同義語にdrAkSAも挙がっています.

玄奘は,葡萄の種別にもこだわりがあったのかもしれません.(西域旅行中には,接待も含め,相当量食べたでしょうし.)

*Funayama, Toru 1995:8世紀ナーランダー出身注釈家覚え書き.『日本仏教学会年報』60.

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  1. 2007/02/10(土) 10:37:50|
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