Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

沖和史先生の論文ビブリオ


1973 Dharmakīrtiの《citrādvaita》理論,『印度学仏教学研究』21-2, 975(88)-969(94).

1975 《citrādvaita》理論の展開――Prajñākaraguptaの論述――,『東海仏教』20, 94-81.

1977 ラトナーカラシャーンティの有形象説批判,『印度学仏教学研究』25-2, 940(61)-937(64).

1982 自相について,『密教学研究』14, 99-114.

1982 無相唯識と有相唯識,『講座・大乗仏教8――唯識思想』(春秋社),177-209.

1983 インド後期唯識思想における正しい認識,『日本仏教学会年報』48, 119-137.

1986 ダルモーッタラ著『正理一滴論註』第I章の和訳研究(1),『哲学』(広島哲学会)38,48-66.

1987 Dharmottarapradīpaにおける現量の定義,『印度学仏教学研究』35-2, 878(143)-873(148).

1988 唯識,『岩波講座東洋思想 第八巻 インド仏教I』(岩波書店),288-313.

1990 ダルモーッタラ著『正理一滴論註』(Nyāyabinduṭīkā)第一章における知覚判断,仲『尾俊博先生古稀記念:仏教と社会』 ,137-160.

1992 インド大乗仏教思想における外界実在論批判の特色、『仏教万華』 永田文昌堂、 129-154.

1993 ダルモーッタラの「量量果非別体論」――Nyāyabinduṭīkāにおける―― ,『渡邊文麿博士追悼記念論集:原始仏教と大乗仏教 下』(前田恵学編,永田文昌堂),119-136.

1998 svapratibhāse ’narthe ’rthādhyavasāyena pravṛtteḥ, 『信心の社会性:仲尾俊博先生追悼論文集』,201-213

1999 無常の観察と慈悲の修習,『種智院大学公開講座第5集』,162-186. 

1999 Pravṛtti as an Action of a Person, Dharmakīrti’s Thought and Its Impact on Indian and Tibetan Philosophy, Proceedings of the Third International Dharmakīrti Conference Hiroshima, November 4-6, 1997, 287-294.

2000 ダルモーッタラ著『正理一滴論註』第I章の和訳研究(2),『インドの文化と論理:戸崎宏正博士古稀記念論文集』(九州大学出版会),347-358.

2001 インド唯識思想の歴史,『種智院大学公開講座第7集』,109-134.

2004 インド後期仏教における唯識の思想と知覚の理論, 広島大学学位請求論文 301ページ.

2008 インド後期唯識思想序説,『仏教学セミナー』87, 49(34)-34(49) .






沖 2008:40(43):
「トルソーの胴体」(śīraputrakasya śarīram)>「トルソーの胴体」(śilāputrakasya śarīram)

なお,私なら,「石像の体」とでも訳すでしょうか.別に,胴体だけの石像が意図されているわけではなくて,頭も手足もついていてもよい石像だと思います.

沖 1990:157, n. 14:
vikalpenānugamyate 'nustriyate adhyavasīyate

もとのマルヴァニア版も確かに'nustriyateとしていますが,単に,'nusriyateの誤植でしょう.

anusriyateという言い換えからも分かるように,anugamyateの直接の意味としては「後ろに続かれる」「後続される」という物理的な意味があって,そのあと,認識論的な意味として,「後から理解される」「判断される」という意味が出てくるでしょう.したがって,「後続される」という直接的な意味を外すことはできないと思います.知覚に後続する(anu-gam)するものとしての知覚判断の位置を明確にしている表現でしょう.その実質的な内容はもちろん分別によるadhyavasāyaとなるので,最終的にはadhyavasīyateとなるでしょうけど.

したがって,沖 1990:144:「概念知によって判定される(vikalpenānugamyate)」は,直訳としては,少し物足りない感じがします.少なくとも,原語がもっている「後続」のイメージが欠落したものとなっていると思います.gamの二義(物理的・身体的な「行く」の意味と,認識論的な「知る」の意味)との両者を反映させておくのが無難かと思います.(ただし解説文では両者をしっかり説明されています.)


知覚と知覚判断の関係は,或る意味,アーティストと評論家の関係に似ているものがあります.

評価してくれる評論家がいないせいで,そのまま埋もれて世に出なかったアーティストもいれば,評論家のおかげで世に出てくるアーティストもいます.

世に出てこなかったアーティストは,まあ,無きに等しいもの,と言えます.

いっぽう,評論家のおかげで世に出てきたからといって,「アーティストと評論家,両者が新しい世界を切り開いた主エンジン」と言うのは不適当でしょう.

第一義的に創造したのはアーティストであって,評論家はそれを後追いしてるだけで,対象そのものの情報に関しては何も付け加えていません.

同じように,知覚も,知覚判断が後続しなければ意識化されないわけで,そうすると,対象獲得行動を起こさせないのですが,だからといって,「知覚+知覚判断」という両者が対象を知らしめる主原因だ,と言うのは不適当です.

あくまでも,知覚こそが,対象を示すものであり,行動を起こさせるものであり,したがって,正しい認識の第一の原因であり,新情報を与えるものです.

知覚判断は後追いしてるだけで,何か,対象についての新規情報を付与しているわけではありません.

ダルモッタラが言いたいことは,例えて言えば,そのようなことでしょう.




桂研終了後に沖先生から色々と昔話を伺う機会がありましたが,70年代の京大のレベルの高さは,やはり,すごいですね.

先生の論文も素晴らしいものばかりです.

70年代,80年代に比して,現在の我々は,どれほど進歩できているのでしょうか.

少なくとも,傾きとか勢いとしては,たいして上向きではないような気がします.

沖先生が学生だったころの京大は,梶山・服部の両教授,先輩には桂先生という環境です.

そして西の九州からは,戸崎先生がPVの知覚論を着々と解読しつつありました.

論文からは,新たな分野の文献を読み解いて明晰に記述するぞという強い意志が伝わってきます.
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  1. 2016/09/17(土) 07:50:54|
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