Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

知覚の定義?

沖 1987「Dharmottarapradīpaにおける現量の定義」は,ドゥルヴェーカミシュラ作DhPの知覚定義を取り上げています.

小論ながら,DhPの趣旨を隙無く掬い上げた素晴らしい論文です.

一部を勝手に補いながら,私なりに(私の頭で理解できるように)解釈し直すと以下のようになります.




「両者の内,知覚というのは,分別を離れており(Ka, 無分別),錯誤していないものである(Ab, 非錯誤)」というNB 1.4をどのように解釈すべきかという問題があります.

ダルマキールティとしては,ディグナーガを受けて,「分別を離れている」(無分別)だけでは不十分で,錯覚を除くためには「ただし錯誤していない」(非錯誤)という規定も加える必要があると考えたのでしょう.

つまり,「両者の内,知覚というのは,ディグナーガの言うように分別を離れたものであるが,ただし(無分別の錯覚を除くために)錯誤していないもの,という規定も加える必要がある」という感じでしょう.

無分別 ∩ 非錯誤という二条件を述べるとき,四句分別よろしく,ABCDの四つの領域を考えることになります.

A: Ka ∩ ¬Ab 無分別・錯誤)
B: ¬Ka ∩ Ab (有分別・非錯誤)
C: Ka ∩ Ab (無分別・非錯誤)
D: ¬Ka ∩ ¬Ab (有分別・錯誤)

それぞれの中身は次のようになるでしょう.

A: 二月などの(無分別の)錯覚
B: φ
C: (正しい)知覚
D: 推論・知覚判断・想起・夢の認識

この二条件を厳密な定義として考えた場合,Bに問題が生じます.

つまり,「錯誤しておらず,有分別のもの」というのに相当するものが何もないので,空集合となってしまうのです.

有分別のものは,知覚判断にせよ,推論にせよ,想起にせよ,いずれも認識対象に関して錯誤しています.(なぜならそれらの認識対象は独自相ではなく共通相だからです.)

したがって,定義としては,実は,「無分別のもの=知覚」だけで十分となってしまうのです.

註釈者としては,少し手を加える必要が生じることになります.



ヴィニータデーヴァは,これを厳密な知覚定義と考えます.

キーポイントは,「非錯誤」を「(獲得対象に関して)食い違いのない」と読み替えるところにあります.

こうすると,配分がうまくいきます.

A: 二月などの錯覚
B: 推論
C: (正しい)知覚(ヨーガーチャーラ・経量部に共通)
D: 知覚判断など

定義の一条件「無分別」によって,まず,推論を排除します.

次に,もう一つの条件「食い違いのない」によって,二月などの錯覚を排除します.

これで,正しい知覚の定義が成り立ちます.つまり,「無分別で,かつ,獲得対象に関して食い違いのないもの」=「知覚」となります.

しかも,「獲得対象に関して食い違いのない」と読み替えることで,ヨーガーチャーラでも使える定義となります.

「非錯誤」とすると,外界対象を認める経量部にしか使えなくなってしまうのです.

というのも,ヨーガーチャーラでは,知覚すらも本質的に錯誤していると考えるからです.

「無分別で,しかも,結果としてうまくいく」という定義ならヨーガーチャーラでも問題ありません.




ダルモッタラは,ヴィニータデーヴァなどの先師の理解を批判します.

そもそも,ここでは「両者の内」とあるように,文脈上すでに,食い違いのない認識である正しい認識が話題となっているので,「食い違いのない」を更に繰り返す必要はないのです.

つまり,「食い違いのない認識である知覚というのは,食い違いのないものである」と記述するのは変だ,ということです.

したがってダルモッタラは,「非錯誤」を字義通り「非錯誤」と取ります.

さらに,ダルモッタラは,NB 1.4を知覚定義とみなしません.

確かにダルモッタラの考えるように,ダルマキールティの文脈からは,「両者の内,知覚というのは」とありますから,既に周知の知覚について,その性質を新たに指摘している(それによって異論を排斥している)と取ることが可能です.

ダルモッタラによれば,「世間周知の,食い違いのない正しい認識である知覚というのは(経量部では),無分別であり(したがってXではなく),また,非錯誤である(したがって錯覚ではない)」となります.

A: 動く木などの錯覚
B: X
C: (正しい)知覚(経量部のみ)
D: 知覚判断など

いずれの条件も,定義的特質として述べられているわけではなく,単に,異論を排除するためにあります.

また,非錯誤を厳密に所縁に関して,と取りますから,この性格規定は,経量部にしか適用できません.




ダルモッタラは,BのXのところが何かを明言していません.

ドゥルヴェーカミシュラは,BのXのところを,知覚判断と明言しています.

A: 二月・黄色のほら貝
B: 知覚判断
C: 知覚
D: 推論・想起・夢の認識

クマーリラなどの言う有分別知覚に相当する知覚判断を「知覚」とする学派は沢山ありますから,異論排除という意味では,このXを知覚判断と明言するのはしっくりきます.

いわゆる有分別知覚,すなわち,知覚判断は,知覚ではない,という趣旨となります.

(なお,「知覚」に有分別のものである知覚判断まで含めて考えるか否かについては,沖 1993に論じられており,沖先生の言うように,含めないというのが正しいでしょう.沖 1993と対立する見解については,北原 1996「adhyavasāya―有形象理論における唯識と外界―」(『論集』23, 84(55)-71(68))の「結び」の補注も参照.)




なお,沖先生の論文タイトルですが,結論からすると,NB 1.4は「現量の定義」ではない,というのがダルモッタラおよびドゥルヴェーカミシュラの趣旨ですから,「Dharmottarapradīpaにおける現量の定義」というのは,実は,少しずれることになります.厳密には,現量の定義に見える一文の解釈,というようなことになるでしょう.
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  1. 2016/09/20(火) 08:15:41|
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