Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

サンスクリット論書文献研究の方法

1.まずは校訂本集めと写本蒐集
ネット社会のおかげで,結構昔の稀覯本でも,PDFで手に入れることができるようになったので,校訂本については,かなりましな状況に変わってきました.

しかし,写本は,なかなかそうはいきません.特にインドの場合,写本蒐集がとにかく大変です.昨今は,「一写本全体の半分しか駄目」とか吝嗇なところも増えてきたうえに,さらに,1フォリオ100ルピーなどという法外な値段も普通になってきました.学生では絶対に払えない料金です.最近のことですが,ひとつの写本のデジタルデータを貰うのに,10万円弱しました.encourageの逆でdiscourageな状況ばかりが目に付きます.いったい,朽ちるに任せて,誰がこの先,使うというんでしょうか.不思議です.さっさとデジタル化して,公開して欲しいものです.東大のネパール写本は,すべてネット公開されています.偉い.また,ポンディの写本も多くが公開されています.この流れが拡大していってほしいものです.

2.次に校訂
まずは校訂本のどれかのデータを入れ込み,写本のデータを入れ込みます.さらに,ほかの校訂本のデータも入れ込みます.一写本のデータを入れ込むのに,結構な日数がかかります.目が疲れるので,そうそう,連続ではできません.デーヴァナーガリーやシャーラダーなら,慣れていますし,文字も大きいことが多いので,まだやりやすいのですが,文字が小さいマラヤーラムとかになると,大変です.ただし,マラヤーラム写本は,良い読みが多いので,外せません.刊本は,たいがい,北インド写本をベースにしてることが多いですから,系統の観点からも,離れたマラヤーラム写本は重要となることが多いと言えます.

3.次に分節化,つまり,科段(科文)の作成
校訂本の基礎ができてきたら,あるいは,その途中でも,分節化が必要になります.ずらずらと書いてあるテクストで,たとえば300ヴァースあっても,これが,5ヴァースや10ヴァースとか,短い単位に区切られると,内容にフォーカスでき,間違いを発見しやすくなります.できるだけ細かく,しかも,有機的に区切ることが必要です.インドの刊本は,区切ってあっても,構造的に区切ることまではしていません.たんに,ぶつぶつとパラグラフを分けてあるくらいです.しかし,内容を見るためには,

1.
1.1.
1.1.1.
1.1.2.
1.2.
1.2.1.
1.2.2.
1.2.3.
2.
2.1.
.....

といった構造化が不可欠です.これによって,読者は,いきなり問題の詩節を見ても,文脈を失うことがありません.また,文脈を捉え損なうことがなければ,たとえ,個々の読み・解釈があやまっていたとしても,大事に至らずに済みます.つまり,全体の趣旨を失うことがありません.また,註釈に頼らずに原文を読む,という意味でも,原文そのものの証拠として,文脈は重要な証拠となるものであり,そのためにも,構造化は欠かせません.

ミーマーンサーの解釈学でも,

1.語
2.文
3.文脈

といった証拠の重要性を説きます.

ヴァースの場合,1abcdだといいのですが,実際には,5cd-6abというように,半詩節がずれていることも多々あります.文の幅を確定する必要があるわけです.さらに,主文,副文の構造など,句読点を打つことも重要になってきます.このような分析は,漢文の分析と同じ感覚です.

4.最後に,内的な参照,外的な参照
「このことは既に述べた」「後述」と内部参照があれば,その箇所を探して頁・行を記さねばなりません,また,同一著者の作品中に平行句がある場合は註記が必要です.さらに,その著者以前のテクストからの引用,あるいは,参照句がある場合も,同様です.基本的に,

1.同一著者
2.それ以前の著者が参照していた著作
3.後代のもの(註釈類)

という順序で重要度が変化します.

ただし,3については,内容の観点と,読みの観点と二つの違う視点が入っています.読みという点では,註釈類も一種の写本として扱えます.そして,大概の写本よりも,古い読みを保存していることが多いので,註釈の中から,原文の読みの示唆証拠を集めることは重要です.内容の観点からは,1,2,3というように,重要度が変化します.素人は,真っ先に3に飛びついて内容を理解しようとしますが,まずは,後代の視点を離れて,1を純粋に読むべきです.そして,3とのずれがないかどうかを点検する必要があります.そのためには,その当時の教養・背景というものを知る必要があります.それが2の作業でもあります.

以上の基礎的な作業を踏まえずにサンスクリット文献を研究しても,砂上の楼閣となりかねません.インド哲学文献の校訂本(インド刊本)は,いい加減なものが多いので,真面目に研究しようとすると,このような地道な作業が不可欠となることがほとんどです.

19c末~20c初頭の校訂本は,大概,手近にあった写本2~3本を校合して終わりです.別に,本人達が悪いのではありません.まずは出版を,という気持ちだったはずです.彼等の業績の上に,さらに,別の写本を付け足して,より良い校訂本を作っていけばよかったのでしょうけど,そして,一部には,そういうケースもありますけど,大概,インドの場合,昔の本を丸写し,というのが基本的態度となります.出版されたものを権威とするというのは,人間,誰しもそうです.また,「すでに出ているものを使えば良い」というのは,怠惰な人間が言い訳として採用したくなる台詞です.

ティルパティにいたころ,プラカラナパンチカーの研究会がありました.PrPには,最初の刊本と,その後,かなり手を入れたBHU版とがありますが,研究会では,たまたま図書館にあった最初の刊本を印刷して参加者に配っていました.後者も図書館にはあったと思いますが,註記などがついて,原文以外の情報が多かったので,印刷頁数を減らすためにも,原文オンリーの前者を選択したのでしょう.結果,悲惨なことになっていました.間違いが多い上に,分節もほとんど為されていない刊本です.あれで分かれ,というほうが無理というものです.テクスト選びは大事です.同じテクストでも,校訂本が違えば,理解度には偉い開きがでてきます.きれいな刊本というのは,校訂者の親切・配慮が,いろいろと施してあるものです.その有り難みというのは,自分自身が校訂作業をすることで,分かってくるものです.出来合いのものを使っているだけでは見えないことというのがあります.

テクスト校訂という作業は,いわば,聞・思・修の修の段階でもあるでしょう.その上で,自分が理解したテクストの内容を教示することができるようになります.この大変な作業をやるのも,根本には,分かりやすいテクストを作るという利他の慈悲があるからです.自利だけを考えるなら,こんな七面倒くさい作業はごめんでしょう.テクストの理解が進めば,校訂本の不備が見えてきて,自分独自の校訂本ができてくるはずです.それを他者にも理解できる形で示すという自利利他円満の作業が,校訂でもあります.

基礎的な作業が為されている分野というのは,その後に続く人達も,堅固な土台の上に立って研究を発展させることができます.逆に,テクストはいい加減,翻訳も覚束ない,といった分野では,訳の分からないことになって,いつまでたっても,最初からやり直さないといけない,ということになりかねません.どんな思想の天才でも,間違ったテクストから内容を把握するのは無理な話です.研究の蓄積という意味でも,基礎的な作業は必要不可欠です.テクスト校訂と翻訳という基礎作業です.
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  1. 2016/10/03(月) 08:00:46|
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