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Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

ダルマキールティ自身の考えは我々には分からないのか?

ダルマキールティは,「プラマーナ(正しい認識の手段)とは欺かない(=効果的作用の定まっている)認識である....あるいは(vaa),未知対象[を照らす]光である」とPV IIで述べています. これについて多くの議論があります.要するに, 1.これはプラマーナの一般定義なのか? 2.二つを結ぶvaaは「あるいは」という選言を意味するのか? ということです.問題は,注釈家達が(チベットの伝統まで含めて)
プラマーナとは,欺かず,かつ,未知対象を照らし出すものである
として,プラマーナが運ぶ情報の〈信頼性〉と〈新しさ〉とを二つとも必要(でありそしてそれで十分)と考えたことです. これについて,ダン博士の興味深いコメントがあります*. ダン博士の議論をまとめると,大体,以下の流れが確認できるでしょう. 1.フランコによれば,ダルマキールティは,プラマーナを定義することがない. 2.この解釈はPV2.5の接辞vaaを選言とのみ解すべきことに基づく. 3.フランコの解釈は議論を巻き起こした. 4.ともあれ,この「vaa論争」の結果分かったことは,注釈伝統に拠らなければ,我々が手にしているダルマキールティの簡潔な言明のために,我々の結論は必ず未決定に陥るということである. 5.このことは,注釈伝統を離れてダルマキールティ自身を歴史の中に位置づけようとする際には避けられない. 6.しかし,ダルマキールティに続く注釈伝統の中でダルマキールティを位置づけようとするならば,我々の仕事は,上の試みより難しくはない. 7.実際,ダルマキールティがプラマーナの一般定義をしていること,および,信頼性かつ新規性が定義の構成要素であることについて,注釈伝統は一致している. 8.有難いことに,私が関わっているのは,後者の勤勉でないほうの任務である. 9.したがって「vaa論争」には立ち入らない. ********************** 以上がダン博士のコメントです. しかし,「かつ」を意味して「あるいは」を使う人などいるのでしょうか? ここの「あるいは」は,実は「あるいは」ではなく「かつ」である──と注釈する後代の注釈家達を,そのままに信頼していいのでしょうか. このような注釈家達は,ダルマキールティの真意を伝えているのでしょうか? あるいは,ダルマキールティが「かつ」を意図しているのか「あるいは」を意図しているのかは,永遠の闇に閉ざされているのでしょうか?(目の前に現に「あるいは」を用いているにもかかわらず!) しかし,たとえ困難であっても,ダルマキールティ自身の考えを明らかにしようとするならば,我々は,「あるいは」と記すテクストそのものから出発しなければなりません. テクストが何を語っているのか,素直に耳を傾けること,それを抜きにして,注釈をいくらひっくり返しても,結局,どこにも到達しないでしょう. それは,ダルマキールティ研究ではなく,ダルマキールティ注釈研究と呼ぶべきものです. 注釈を通してのみ,ダルマキールティを眺めるならば,歴史のないのっぺりとした思想しか見えてこないでしょう. そして,それは,注釈家達の思想についても,結局,その真意や位置づけを曇らせてしまいます. 不可能に見えるから,困難だから,それについては端から諦める,というのは極端な戦略です.(Cf. ロバート・フォグリン著『理性はどうしたって綱渡りです』春秋社) また,このような戦略の抱える理論上の問題については,既に明らかにしました. http://blogs.dion.ne.jp/sanskrit/archives/3927227.html できるところまで,登れる所まで,頑張ればいいではないのでしょうか. はじめから完璧を目指す必要はないのです.
*Dunne [2004:309-310, n.168]: Franco (1991 and 1997) has argued that Dharmakirti does not give a general definition of an instrument of knowledge (pramana) anywhere in his works. This interpretation is largely based upon the argument that the particle vaa in PV2.5 can only properly be construed as a disjunction. Franco's work, which seeks a historical reading that at points must resist the commentaries, has elicited considerable comment (see for example, the exchange between Franco and Oetke in Katsura 1999). Beyond Franco's insightful suggestions concerning the relation of Dharmakirti's work to the wider philosophical context of his time, one salient outcome of this ``vaa controversy'' may be the finding that, if we do not resort to commentarial interpretations, our conclusions on the matter are necessarily underdetermined by the available evidence, namely, Dharmakirti's laconic statements. This is not a problem in itself, but it is one that must be tolerated when we assay the difficult exploration of Dharmakirti's immediate historical context in isolation from the commentarial tradition. When, however, we seek to situate Dharmakirti within the commentarial tradition that follows him, our task is less difficult. Indeed, we find unanimity on the notion that Dharmakirti does provide a general definition of pramana and also that both trustworthiness and novelty are components of that definition (the only question being the issue of whether both must be explicitly stated). Since I am thankfully concerned with this latter, less assiduous task, I have forgone any extensive discussion of the ``vaa controversy.'' John D. Dunne. Foundations of Dharmakirti's Philosophy. Boston: Wisdom Publications, 2004. (Kataoka: by the way, on p. 255, n. 49: ``For more on the dispute concerning this bipartite definition, see n.170'', should ``n.170'' be corrected as ``n.168''? あるいはこの場合も,作者の真意を探ることは不可能なのでしょうか?)
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  1. 2007/02/17(土) 09:14:19|
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