Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

インド思想史学会



インド思想史学会 第 23 回(2016 年度)学術大会のご案内

開催日   2016 年 12 月 17 日(土)
会 場  京都大学 楽友会館 2 階 会議・講演室

13:30 – 14:20
高橋 健二(京都大学文学研究科・博士課程・日本学術振興会特別研究員 DC)
「Manavadharmasastra 第1章と Mahabharata 第 12 巻第 224–225 章における創造・帰滅説の編纂過程の再考」

14:20 – 15:10
川村 悠人(京都大学文学研究科・日本学術振興会特別研究員 SPD)
「接辞重複問題に見るパタンジャリの言語理論」

—— 休 憩 ——

15:30 – 16:20
酒井 真道(関西大学文学部・准教授)
「瞬間性推理と内遍充をめぐる思想史の一考察 —ドゥルヴェーカミシュラが伝えるアルチャタとダルモーッタラの見解の相違—」

16:20 – 17:10
藤井 正人(京都大学人文科学研究所・教授)
「ヴェーダ文献における yoga/yukti について」




もともとは服部先生の作った学会ですから,ダルシャナ中心でしたが,今回の発表を見ても分かるように,現在の日本のインド学の多様性と高度な専門性を表わす発表構成となっています.

高橋さんの発表が扱うのは,ダルマ文献とマハーバーラタ,いわゆる「インド学」のど真ん中という感じの発表内容.古くから取り上げられてきたテクスト群を扱っています.

川村さんのは,パーニニ文法のテクニカルな問題について.フランス語で文法学について著作を物された大地原先生の時代には,パーニニ文法のテクニカルな問題について日本語で発表する人も皆無だったでしょうし,聞いてもちんぷんかんぷんだったでしょうが,現在では,小川先生の薫陶を受けた若手がこの分野を牽引してくれています.

京大に於けるヴェーダ学の伝統を守る藤井先生の発表は,トリに相応しい包括的な発表でした.

酒井さんのは,仏教論理学における,いわゆる「内遍充」「外遍充」の問題.本邦では,志賀さんも盛んに議論している問題です.以下で詳しく見てみましょう.





インド哲学の諸伝統において,古くは,ニヤーヤ学派に代表的なように,通常,外遍充とされる立場を取ります.

つまり,竈など,周知のものにおいて火と煙の遍充関係を確定してから,次に,同類例とは別のものである,未だ疑惑の渦中にある山について,それを主題として,火があるのを煙から推論します.

遍充関係が確定されるのは,主題である山「以外」,すなわち,主題の「外」においてです.

これが外遍充と見なされる立場です.

インド哲学は,基本的には,このような外遍充の立場を前提としています.

「竈のように,山も」というのが基本だからです.

これにたいして,ダルマキールティ以降では,必ずしも,このような立場を取りません.

というのも,(世俗レベルでの)客観的な拘束関係(pratibandha)ということを考えるので,表面上の現象に拘泥する必要がないので,遍充関係確定にあたっても,「竈のように」ということを言う必要が,本質的には,なくなるからです.

あくまでも,因果関係や同一性という拘束関係を確定することが大事なのであって,竈など周知のところで,火と煙の上っ面の同居を見ることは,遍充関係確定の根拠とはならない,と考えるからです.

ダルマキールティによれば,遍充関係は,「見た目」ではなく「実質」で決めるべきものであって,そして,その実質は,火から煙という因果関係か,シンシャパーは木を本体とする,という同一性のいずれかに限定されます.そして,この拘束関係は,「すべてを取り込む遍充」であって,主題と同類例の区別を持ち込む必要はありません.それらの区別はそこにはないのです.主題であるか同類例であるかを問わず,全てを包括して遍充が確定されるのです.

また,同一性の確定に典型的に見られるように,ダルマキールティでは,「仮にそうじゃないとするとおかしいことになる」「木じゃないとするとシンシャパーではありえないはずだ」という思考実験を持ち出すので,経験に依拠する必要がありません.

「存在するなら,刹那滅である」「というのも,もし刹那滅でないならば,常住ということになるが,常住なものは,効果的作用の能力を持たないので,効果的作用物=現在存在たりえない,ということになってしまうから」というわけです.

この場合,明らかに「外遍充」ではありません.

というのも,主題も中に含まれているからです.

では,内遍充と呼んで良いのか,という問題が出てきます.

そこは,微妙な問題になってきて,それについて,小野基先生も,酒井さんも,問題にしているところです.

というのも,内遍充というのは,ジャイナの「そう考えないとおかしいこと」一本槍の推論方法を特徴的に指す名称だからです.

これにたいして,ダルマキールティの場合,あくまでも,主題所属性(煙が山という主題の属性であること)という第一条件を必要とします.

ジャイナとは異なるのです.

したがって,ダルマキールティの立場を単純に「内遍充」と呼ぶことに関しては,少し慎重にならなければならない,ということになります.

今回の酒井さんの発表は,アルチャタ,ダルモッタラ,ドゥルヴェーカミシュラのテクストを取り上げたもので,特に,ドゥルヴェーカミシュラの記述をもとに,これらの問題を洗い直したものです.

ダルマキールティに註釈するアルチャタに,さらに復注を書いているドゥルヴェーカミシュラの『理由の滴の注の光』という復注は,一部,テクストが怪しい箇所もあって,一筋縄ではいかない感じがします.

また,解釈も,結構難しい箇所があります.




発表後の会場からの質問は,最初に私,次に隣に座っていた志賀さん,最後に,横地さんでした.

横地さんによれば,virasiibhaavaというのは,「まずくなる」というような意味ではなくして,「読者が興味を失う」という意味だそうです.

確かに,rasaをそういう意味で使いますね.
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  1. 2016/12/18(日) 06:29:47|
  2. 未分類

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