Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

時間幅のある諸部分と,無時間的な単一の全体との間の溝を埋めるには

「言葉」と言われるものは具体的には何なのでしょうか?

それは個々の音素という部分に還元できるものなのでしょうか,あるいは,「語」や「文」として我々が単純に理解するような,不可分・単一の全体なのでしょうか?

まず,ここでいう言葉とは,意味を理解させる原因となるものです.

例えば煙は,火を理解させる,という意味では,対象理解原因ではありますが,それは,今の文脈では問題になりません.

意味理解原因としての言葉,それを聞いたときに意味が理解されることになる,そういう言葉が一体何なのかが問題となっています.

伝統的には,この論題は,音素の実在を認める立場と,スポータを認める立場の対論として議論されてきたものです.例えば「スポータ論」などと呼ばれる論題が,それにあたります.

ニヤーヤやミーマーンサーは要素還元主義を取るので,最終的には,音素を言葉の実質とします.(ニヤーヤでは音素という言葉/音声を無常と考え,ミーマーンサーでは音素という言葉/音声は常住であると考えます.)

いっぽう文法学派は,全体が先にあり,要素還元は仮のものだと考えるので,文スポータこそが言葉だと考えます.

語スポータなる単一体も,実際には,文から抽出された部分として,仮のものに過ぎません.

しかし,いま,議論の都合上,語が何か,ということに話題を限定すれば,語は,音素の集合に還元できない全体であるとするのが文法学派であり,逆に,音素の集まりであるとするのがニヤーヤやミーマーンサーです.

要素還元主義と全体先行主義という相反する見方が,ここでは鋭く対立します.

どちらの理論にも長所・短所がそれぞれあります.

語という全体を,個々の音素に還元した場合には,音素の順序や,(常住あるいは無常である)諸音素から全体としての語の理解がどうして可能となるのか,といったことが問題として浮かび上がってきます.

逆に,語という全体を最初に認める場合には,では,実際に我々が認識する諸部分である音素(たとえばg-au-ḥ)がどのようにしてあるのか,あるいは,"gauḥ"という語の全体は,部分のどれから理解されているのか,最初の音素gを聞いたときに既に語全体が理解されているのか,あるいは,g, au, ḥという全ての音素を聞いたときに語全体が"gauḥ"として理解されるのか,などの問題が浮かび上がってきます.

いずれも一筋縄では解決しない問題群です.

時間の幅のある諸音素の連なり(およびその理解)と,無時間的な単一の語(およびその理解)という両者の溝を埋める理論が必要となってくるのです.
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  1. 2016/12/28(水) 23:49:41|
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