Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

言葉一元論と認識一元論

「牛」という語は牛という対象を表示します.

「牛」→牛

また,「牛」という頭の中にある認識は,牛という対象を志向しています.

「牛」→牛

このように,認識と言葉とは,同じく,対象に向かっていきます.つまり,対象を持つものと,対象の関係にあります.

対象を持つもの→対象
viṣayin  → viṣaya

「対象を持つもの」という言い方が面倒なので,日本語風に述べるならば,

主観→客観
主体→客体

あるいは

主→客

と言っても良いでしょう.主客の分化などというと,どこぞの禅哲学みたいですが,それと似たようなことです.

さて,主客の二分というと,唯識が想い出されます.「一切は心に過ぎない」と標榜するヨーガ行派は,

把握するもの→把握されるもの
 grāhaka → grāhya

という宿痾を,我々の心の病の根本的なあり方と喝破しました.

これは,基本的には,認識を軸に据えた見方です.

もう一つの「主」(対象を持つもの)である言葉を軸に据えると次のように言えます.

表示するもの→表示されるもの
vācaka → vācya

サンスクリット学者・言語学者のソシュール流に格好良く

シニフィアン→シニフィエ

と述べたいところです.(福田さんは対応するチベット語の訳語を,そのように訳しています.)

これこそまさに,文法学者バルトリハリの言いたいことです.

ちなみに,眞諦譯の『婆藪槃豆法師傳』 (No. 2049)によれば,ヴァスバンドゥは,バルトリハリの師匠のヴァスラータ(婆修羅多)を論破したそうです.

とすると,紀元後400年頃の唯識も文法学も,同じ穴の狢で,両者ともに

主→客

の二分を,心の病だと見抜いていたということになります.

主客未分の状態をヨーガ行者達は認識を軸足に「唯識」と述べ,文法学者達は言葉を軸足に「言葉ブラフマン一元」と述べていたことになります.




ヴァスラータの記事をSATから,そのまま引用すると以下.

新日王妹夫婆羅門名
T2049_.50.0190b23: 婆修羅多。是外道法師解毘伽羅論。天親造
T2049_.50.0190b24: 倶舍18論。此外道以毘伽羅論義破法師所立
T2049_.50.0190b25: 文句。謂與毘伽羅論相違令法師救之。若不
T2049_.50.0190b26: 能救此論則壞。法師云我若不解毘伽羅論
T2049_.50.0190b27: 豈能解19其深20義。法師仍造論破毘伽羅論
T2049_.50.0190b28: 三十二品始末皆壞。於是失毘伽羅論。唯此
T2049_.50.0190b29: 論在。
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  1. 2016/12/29(木) 11:19:16|
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