Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

「陳那と法称における自証について」について

Ueda, Yoshifumi(上田 義文)
[1955]
「陳那と法称とにおける自証について」『東海仏教』1, 2--10.

[1957]
『大乗仏教思想の根本構造』,百華苑.

上田 1957: 192, n. 5に『集量論』1.10が引かれています.

しかし,yad ābhāsaṁ prameyaṁ tatとあります.

これだけで,このヴァースを正しく理解していないことがばれてしまいます.

正しくは,スペースなしの

yabhāsaṁ prameyaṁ tat

です.

男性名詞のābhāsaが,主格なのに中性で終わっているのを理解できてない時点で,このヴァースの理解は既に覚束ないでしょう.

学部レベルの引っかけ問題でよくあるように,言うまでもなくバフヴリーヒです.

隠れた中性主格のjñānamに係ります.

1950年代ですから,服部先生の偉大なHattori 1968は,まだ出ていません.

基本的な研究があるのとないのとでは大違いです.

Hattori 1968: 29:
k. 10. whatever the form in which it [viz., a cognition] appears,
that [form] is [recognized as] the object of cognition {prameya).



サンホセ州立大のコース教材なのでしょう,一部のPDFが上がっていました.

http://www.sjsu.edu/people/anand.vaidya/courses/c2/s0/Hattori-Dignaga-on-Perception-Examination.pdf
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  1. 2017/01/12(木) 08:06:39|
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