Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

真実形象の問題点

形象真実論は何が駄目なのでしょうか.

形象が真実ということは,つまり,認識内にあるgraahya-aakaaraという内的形象を,paratantraでリアルなものとして考えるということです.

もちろん,リアルな形象は,正体としては,認識そのものです.

すると,認識が認識を捉えるという自己認識の構図が当てはまることになります.

だとすると,どうなるでしょう,錯誤した分別知が誤った形象を捉えるはずが,認識が認識を捉えることになるので,それは,自己認識という知覚になってしまうのです.

つまり,「牛」という牛性の分別知だったはずのものが,その内的形象をリアルなものと考えてしまうと,認識そのものと同体ということになるので,認識による認識の自己認識という知覚となってしまうのです.

分別知が知覚になってしまうという帰結.

この批判方法は,ダルモッタラに既に見られます.

形象真実論のジュニャーナシュリーが描出するラトナーカラシャーンティと思われる形象虚偽論からの批判の要旨は,まさに,このダルモッタラの批判方法に則っています.

したがって,ダルモッタラやラトナーカラシャーンティによれば,形象は虚偽でなければならないのです.

マンダナ流に述べるならば,aatma-khyaatiではなく,asat-khyaatiでなければならない,というのが彼らの錯誤論の立場です.

そして,形象が虚偽であるからこそ,虚偽形象がなくなれば,光り輝く認識のみが最後に残るのです.

もしも形象が真実なるものとしていつまでも残るのならば,涅槃はありえないことになる,というのが形象虚偽論が形象真実論に向けた批判です.

修道論の四諦十六行相について議論していたアビダルマ論師達も,まさか自分たちの行相aakaaraが,紀元後1000年頃のヴィクラマシーラ僧院で,「はたして,真実か,はたまた,虚偽か」と,錯誤論の文脈で激しく議論されることになろうとは,夢にも思わなかったでしょう.

ヴェーダーンタでもそうですが,錯誤論は密接に解脱論と関わってきます.なぜならお高くとまった(覚者たる)宗教者から見れば,凡人の認識というのは全て「錯誤」だからです.
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  1. 2017/03/03(金) 19:20:47|
  2. 未分類

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