Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

形象論における兎角導入の含意

水が見えています.

しかし,錯誤の場合,実際に見ているのは逃げ水という影像・形象であって,水というリアルな外界対象ではありません.

つまり,実際に把捉しているのは,認識内の形象,あるいは,虚像であって,外界の水ではありません.

ダルマキールティは,錯誤の一種である判断を「ひとつにすること」と説明します.

つまり,認識内形象を水だと思い込むこと,同一視が彼にとっての「ひとつにすること」,すなわち,判断です.

二つを一つにすること,これは,非XをXと思い込む,水でないものを水を思い込む,というように錯誤を説明する形象真実論の錯誤理解では,簡単に説明がつきます.

しかし,一階建ての単純構造,すなわち,aaropaを単なる虚構と考え,それを錯誤とする形象虚偽論では,説明が困難となります.

Jはここを突いてきます.

ラトナーカラシャーンティよ,君にとって,一つにすることとは何なのか,と.

もしも,ラトナーカラシャーンティが,物理的に一つにすることだ,と答えたとしたら,次のような問題が生じます.(実際には,ラトナーカラシャーンティがそのように答えることはありえませんが,仮にの話です.そして,この批判方法は,ダルモッタラにあるものと同じものです.)

虚偽のものというのは,因果関係上に入るものではありえません.

虚偽のものというのは,無のことであって,それは要するに,絶対無と同じだ,とジュニャーナシュリーは考えます.(もちろん,ラトナーカラシャーンティにとって,両者には違いがあります.牛性と兎角とは,性質を異にします.牛性は現れますが,兎角は現れません.)

兎角という絶対無は因果関係上に入ることがありません.すなわち,兎角には原因がありません.(? ⇒ 兎角)

同様に,虚偽のもの,虚構されたものは,無である以上,原因を持ち得ません.(原因 ⇒ 虚偽のもの)

したがって,二つのものが物理的に一つとなった結果として,虚偽のものがあるというのは,間違いということになります.

SSS: もしも,一つになることを引き起こすこと[が,一つにすること]だ,と言うならば,虚構されるものと虚構対象(虚構の土台)とは,「或る時に一つになること」がないので,[物理的に二つのものが一つになることは]全く不可能である.というのも,兎角に原因は何もないからである.



このJの議論は,兎角が絶対無の例として引かれること,そして,形象虚偽論すなわちasatkhyaati説の無asatがしばしば,絶対無atyanta-asatと同じと見なされた上で批判されるという錯誤論の議論パターンを知ってないと理解困難でしょう.

原因                            結果
虚構されるもの(水)+虚構の土台(逃げ水) ⇒ 虚偽のもの
         ?                  ⇒ 兎角
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  1. 2017/03/28(火) 19:05:58|
  2. 未分類

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