Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

形象真実論の考え方

[形象1(実在)←新得経験1]
⇒判断1
⇒[外界対象1←発動1]

新得経験が或る特定の形象1(認識と同体のものとして実在である)を持つとき,特定性を持つに至ります.

それに応じた判断1が生じます.

そして,それに応じた発動1が生じます.

こうして,特定対象1が獲得されることになります.

このように,形象を実在と考える場合にのみ,発動の入り乱れが回避されます.

つまり,整合性・規則性が保たれます.

例えば,青という外界対象は,黄とは異なる特殊性を持っています.

この特殊性のおかげで,それぞれの働きは異なるわけです.

つまり,青は青の認識を生み出しますが,黄の認識を生み出すことはありません.

実在には,このような特殊性・特定性があるのです.

青⇒青の認識

したがって,形象を実在と考えることは,この特定性・違いを説明するのに本質的なことです.

いっぽう,形象虚偽論のように,形象を虚偽としたらどうなるでしょうか.

SSS: また,形象が非実在である場合には,水の認識と炎の認識との間に何の違いもなくなってしまうので,水の新得経験からでも,炎の分別があることになってしまう.同様に,炎の分別から,飲みたい人・浸かりたい人が発動することになってしまうだろう.しかし[現実には],[水を]飲みたい人は,「ここに火がある」と思って,発動するわけではない.



[虚偽形象1(非実在)←新得経験1「*水!」]
⇒判断2「火だ」
⇒[外界対象1←発動1]

この場合,出発点である実在(形象)の特定性がありませんから,何でもありになってしまいます.

つまり,水の新得経験から水の分別があるのと同様に,水の新得経験から火の分別があってもよいのです.

なぜなら,見えているのは実在ではなく非実在なので,特殊性を持ち得ないからです.

無の上に区別を設けて,それによって,新得経験に特殊性があると考えることはできないのです.

水の新得経験⇒火の分別⇒水への発動

結果として,形象虚偽論では,発動の入り交じりが帰結してしまいます.

「ここに火がある」と思ってプールに飛び込むことになるのです.

虚偽形象Aと虚偽形象Bの違いというものが,そもそも存在しえないのですから,特定性を継承していくことがありえないわけです.

顔無しAと顔無しBとを描き分けろ,といっても,難しいのと同じです.

机の上における壺の非存在とリンゴの非存在とを描き分けることはできません.

虚偽形象Aと虚偽形象Bとは,新得経験Aと新得経験Bとに違いを生み出し得ないのです.なぜなら非実在だから.つまり,働きを持たないから.

もちろん,唯識であれば,青というのも,外にある青ではなく,特定の潜在余力Aによって生み出された青の形象ということになるでしょう.

いずれにせよ,特定の働きを持つものは,実在でなければならないというのが,形象真実論が形象虚偽論に対して行ったここでの批判です.




しかし,冷静に考えると,実在性を全く欠いた虚像であっても,立派に特定の働きを持ちうると思いますけど...

ややこしいこと言わずとも,形象虚偽論でいいでしょう,という気がします.
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  1. 2017/03/28(火) 20:59:55|
  2. 未分類

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