Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

思弁と法性

仏教的真理である法性は思弁(tarka)の及ぶ範囲にありません.

ジネーンドラブッディはディグナーガのPSV注釈にあたり,思弁と法性の関係を明らかにしています.

「思弁の道によって法性を決択しようとする者達,彼らは,釈迦牟尼の教説から遙か離れて滅している」ということです.

法性はそもそも,思弁の対象ではないからです.

これは,宗教的真理を思弁から守ろうという姿勢です.

いわゆる,宗教的真理は科学の範囲内には収まらないという態度と同じです.

哲学者も同じようなことを議論しています.哲学の領域が科学に収まるのか否かと,また,科学に還元されない哲学独自の領域があるのか否かと.

ディグナーガ,ジネーンドラブッディの議論も同じです.

1.宗教的真理
2.思弁領域

1は2を超えている.

では,宗教的真理は2の思弁によって吟味される必要はないのか.

というと,さすが,インド人,そこは思弁を拒否しません.

むしろ歓迎.

吟味が必要,という立場を取ります.

「外道のでっちあげた事物(原理)のように」

たとえば,外道は,アートマン(我)など,実在しないものを勝手にでっちあげています.

しかし,思弁によって吟味すれば,それは,「変化」して雲散霧消してしまいます.

思弁(思考分析)によって変化するようなもの,雲散霧消してしまうようなものは,勝義的存在ではありませんから,当然,そのようなものが真理と認められることはありません.

それでも残るものが真理です.

外道の唱える真理を排除し,仏教の真理を残すためにも吟味は必要です.

「外道らにより思弁の対象として認められているにもかかわらず,アートマンなどという原理は,思弁によって吟味すると変化する.彼らの教説において設定されたようには存続しない,という意味である.」

さらに,思弁は推論です.

それは,一般相の形で法性を捉えます.

そのような形で,法性の独自相の証得に,間接的に資することが出来ます.

吟味しても無我はそのままに残るのです.
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  1. 2017/04/08(土) 06:22:29|
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