Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

kutūhalanivṛtter apy arthatvāt

プラバーカラ派は全ての文章を実践につながる命令と解釈します.

実際の行為に役立たないような文章は無意味になってしまうから,文章を有意味だと考える必要上,全ての文章は命令文を本質とすると考えるわけです.

「ここに宝物がある」

という平叙文も,「ここに宝物があると理解すべし」と,理解するように命令する文だと解釈します.

同様に「アートマンがある」というのも「アートマンがあると理解すべし」という命令文だと解釈します.

このように,全ての文章は,何らかの行為への発動,あるいは,それからの回避を命令するものだ,とするのがプラバーカラ派の文章解釈理論です.

これにたいしてマンダナのきつい一言.

「好奇心の解消もまた目的となるので」

実践である発動・退行へと導かないようなもの,すなわち,好奇心の解消というような消極的理由もまた言明の目的となりえます.

1.言明⇒発動・退行
2.言明⇒好奇心の解消

つまり,行為へと導かないような言明もあるわけです.

「捨てようとされもしておらず,また,受け取ろうともされていないような,(つまり発動・退行には関わらないような)遠くの国の王様の名前や事跡などを扱う疑問が,関心者達にあるのが現に見られる」

とマンダナは述べています.

実践的には役立たないものであっても,知りたいという関心があれば,その関心を満たすだけで十分に目的となりうるのです.

知的好奇心を満たすこと,これだけで既に人間の目的として十分に役を果たすわけです.

それ以上何か実践的な目標を求めるのはお門違い,あるいは,現実を無視した見方だ,ということです.

「そして,それらに通じる者たちの,好奇心解消を主眼とする言明が[現に見られる]」と.

過去にあった出来事を淡々と語るようなもの,そのようなものは,聞き手の発動・退行といった実践活動を促すものではありません.

そうではなく,単に,楽しみのためです.

聞き手の悦びのために,既見事実をなぞって説く物語があるわけです.

聞き手の発動・退行のためではありません.

「また,悦びのために既見事実をなぞる物語があるが,それは,聞き手の発動のためでも,退行のためでもない」と.

知的好奇心を満たすことは,それだけで十分に目的となりうる,ということです.

そしてそれは現実にそうだ,というのです.

今現在の自分の実践には関わりのないような遠い昔のお話も,悦びのために人間は聞いたりします.

遊び心を忘れるとき,知的前線開拓は止むでしょう.
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  1. 2017/05/20(土) 11:22:21|
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