Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

印仏学会 2017

日本印度学仏教学会
第68回学術大会
会 期 平成 29 年 9 月 2 日(土)~ 9 月 3 日(日)
会 場 京都市中京区西ノ京壺ノ内町 8-1  花園大学



第 1 部会(惺々館1階 101)

9月2日(土) 午前の部(9: 00 ~ 11:40)

1. ジャガディーシャの詩論 ─詩的意味の美的知覚─ 岩崎 陽一(日本学術振興会特別研究員PD)
2. Brahmasiddhi Tarkakāṇḍa の構成と内容概観 斉藤  茜(日本学術振興会特別研究員)
3. Kuvalayacandra 出生時の惑星配置について 小林 史明(東京大学大学院)
4. ṚV X 102:「ムドガラの競争の歌」再考 里見英一郎(東京大学大学院博士課程満期退学)
5. リグヴェーダにおける心臓とソーマ 竹崎隆太郎(東京大学大学院)
6. ヴェーダ祭式における犠牲獣の殺害行為と祭式学的展開 大島 智靖(東京大学死生学・応用倫理センター特任研究員)
7. 頭部崇拝に関する一考察 伊澤 敦子(国際仏教学大学院大学附属図書館員)
8. ヴェーダ祭式 Upavasatha と仏教 Uposatha(「布薩」)における「断食」 阪本(後藤)純子(宮城学院女子大学特


9月3日(日) 午前の部(9:00 ~ 12:00)

1. 両面鏡比喩の両面性
─古典サーンキヤ映像説変遷史─ 近藤 隼人(筑波大学非常勤研究員)
2. Mudgala のエピソード─ Mahābhārata 3.246–47 の研究─ 井上 信生(大阪大学修士課程修了)
3. マヌ法典における「業と再生」の理論 手嶋 英貴(京都文教大学教授)
4. ニヤーヤ学派における三時の考察と三世実有説 渡邉 眞儀(東京大学大学院)
5. シヴァ教再認識派写本の欄外註と注釈文献 川尻 洋平(筑紫女学園大学人間文化研究所リサーチアソシエイト)
6. マドゥスーダナ・サラスヴァティーのアドヴァイタ教学における Bhāgavatapurāṇa の意義について 真鍋 智裕(日本学術振興会特別研究員PD)
7. ムンダカ・ウパニシャッドのテキストについて 間口美代子(真宗大谷派方廣寺副住職)
8. Gargīyajyotiṣa における Tithikarmaguṇa─初期の諸文献にもとづくティティ儀礼─麦  文彪(京都大学白眉センター特定准教授)
9 ジャイナ教における殺生 / 不殺生の判断基準 宇野 智行(筑紫女学園大学教授)




第 4 部会(惺々館2階 201)

9月2日(土) 午前の部(9:00 ~ 11:40)

1. ジャヤンタの擬似論証因における aprayojaka 須藤 龍真(九州大学大学院)
2. avasthāviśeṣa ─「差異」としてのアポーハ解釈の原点─ 中須賀美幸(広島大学大学院)
3. インド哲学真理論における整合知(saṃvāda)と美質の認識(guṇajñāna)石村  克(広島大学大学院博士課程満期退学)
4. 非認識論証因における否定対象と認識対象について 道元 大成(龍谷大学大学院)
5.プラジュニャーカラグプタの感官知(indriyapratyakṣa)説─ニヤーヤ・ヴァイシェーシカ学派批判を中心に─横山 啓人(筑波大学大学院)
6. 共相(sāmānyalakṣaṇa)と普遍(sāmānya)の区別について 秦野 貴生(大谷大学大学院)
7.『タットヴァサングラハ・パンジカー』最終章における無余の知(aśeṣajñāna)について 佐藤 智岳(九州大学大学院)
8. ヨーガ行者による過去や未来の認識について 護山 真也(信州大学准教授)


9月2日(土) 午後の部(13:20 ~ 16:00)
1.『集量論』第一章における<想起>の問題 吉田  哲(龍谷大学講師)
2.『因明正理門論』過類段偈頌の原文推定とその問題点 小野  基(筑波大学教授)
3. シャーンタラクシタによる<附託の排除>の議論 石田 尚敬(愛知学院大学講師)
4. ディグナーガの転義批判 片岡  啓(九州大学准教授)
5. Trairūpya による「空」と「有」の証明をめぐって 何  歓歓(浙江大学教授)
6. 瑜伽行派と『十地経』との関係─入正性離生の用語を通して─Vo Thi Van Anh(ベトナム仏教大学講師)
7.「如来十号」解釈の一展開 ─『仏随念注』『釈軌論』とその周辺─ 堀内 俊郎(東洋大学東洋学研究所研究員)
8. 初期新ニヤーヤ学における原因の概念 ─シャシャダラの定義─ 和田 壽弘(名古屋大学教授)



うちも賑やかになって,現在,九大印哲の所属学振が四人.

ただでさえ狭い研究室の机もぎりぎりになってきました.

斉藤PD(from Kyoto),眞鍋PD(from Waseda),佐藤DC2,須藤DC1.

8月には,これに,世界での厳しい競争を勝ち抜いてRobert Ho財団のFellowshipを獲得した韓国人PD(from Michigan)が一人加わります.

みなさん,他の人の機会を奪って金をもらいながら24時間勉強できるのですから,その分,怠けることなく,きっちりと成果を発表してもらわないといけません.




昔は,博士課程に入ると,非常勤やら生活やらで忙しくなる人が多く,あるいは,修論で燃え尽きたのか,こつこつと成果を発表して業績を積んでいく人は,今より少なかった気がします.

無学の境地に達したつもりだったのでしょうか.

あるいは,修論でやったような一所懸命の勉学煩悩には戻らないという不還の境地に至るのでしょうか.

「もう勉強は止め」とばかりに,知的涅槃寂静の境地に達したかのような人を見かけたりもしました.

学部の私が質問するレベルでも,まともな答えをくれる博士・ポスドクの人はごくごく僅かでした.

今思うに,学部生相手に自分の無知がばれるのが怖かったのでしょう.

学部であれ修士であれ,皆が疑問に思うことというのは,往々にして同じで,それは,誰にとっても立派な問題だったりするものです.

授業で聞くズレた日本人の訳よりも,ヒンディー訳に書いてあるインド的理解の方が遙かに自分には勉強になりました.




さて,一昔前の印仏研,院生の発表には,修論でやったようなネタを細切れにしたり,薄くしたりして発表する,「どんどん薄くなる食塩水」のような発表,という印象を受けたものもありました.

修論のテーマを出し切ると,短い線香花火も終わりか,という感じがしたものです.

それが現在では,学振の制度により全国区での公平な競争が可能となっています.

博士論文につながる,あるいは,そこから派生する論文成果が如実に他者との差異として機能するようになっています.

若手にとり,成果発表のモチベーションが高まっているのは明らかです.

「数より質」という批判もあるかもしれません.

しかし,そもそも何も出てこなければ質も何もありません.

制度として,昔より全然ましだと思います.

退官間際のおじいちゃんの勲章みたいなライフワークものの昔の「文学博士」でなく,文系でも博士課程で普通に博士号「博士(文学)」を出すようにした制度変換の功績には大きいものがあります.

逆に言えば,博士号を今まで出していなかったということこそが,相互評価の難しい文系の学問が敬語社会において放っておくと辿ってしまう運命を示しているように思います.

つまり誰が見ても同じ数式や誰でも実証できる実験といったシンプルなfactやevidenceで決まるのではなく,その人が既に持っている地位や年齢の上下関係で決定・忖度・遠慮が為されやすかった,ということです.

しかし,言うまでもありませんが,文献学者であっても,上下関係は(勝義には)存在しません.

正しい読み・解釈というのは,科学のように一義的に決まるわけではなく,複雑ではあります――それは機械による自動翻訳の難しさを見れば分かるでしょう――が,相対的な優劣がないわけでもありません.

皆が認める「より正しい解釈」や「深い読み」というのは存在します.

そのような,研究者間の合意・せめぎ合い・調整・均衡が実現される場が学会というわけです.




昔は,もちろん金もネットもなかったからでしょうが,若手で海外との交流を(自力で)している人は皆無でした.

わずかに先生のつてで長期留学している人達だけに,海外との一箇所との交流があったのみです.(そして,そのような先輩は,海外に行ったきりですから,日本の大学にいる学生には何の縁もありませんでした.)

しかし,いまや,若手でも,欧米やインドの研究者や同世代の卵と自由に意見交換し,習い習われ・切磋琢磨の関係にあります.

海外だけでなく,国内でも交流が盛んです.

30前後の最も活きの良い若手が他校で3年間すごすというような,一昔前であれば「内地留学制度」でしか不可能であったようなことが日常茶飯のこととなっています.

そして,かつての「内地留学制度」が活用されることは,実際には,ほとんどなかったと思います.

それは,今から見れば実にしょーもない「学閥」という世俗的意識が多くの人々の心に厳然と存在していたからだと思われます.

T大のE先生は,ポスドク期にK大に行ってO先生の下で文法学を学びたかったそうですが,結局,いろいろな事情で実現しなかったと,よくこぼしていました.

時は移って今,「修士→博士→助手」という一校に閉じた旧弊の淀みの制度がなくなって,とても良かったと思います.

内輪の仲良しごっこの結果,実力無き者が去らないという可能性が多く残る制度だったからです.

tāpāc chedāc ca nikaṣāt suvarṇam iva paṇḍitaiḥ/
parīkṣya bhikṣavo grāhyaṃ madvaco na tu gauravāt//
熱することで,切ることで,こすることで,黄金のように,賢者達は,
よく吟味してから,比丘達よ,受け入れるべきである,私の言葉を,重み(尊重)からではなく.



という仏教の合理的態度は,単に教典の言明(vacas)のみならず,選ぶべき人物にも当てはめて考えるべきです.




焼いたり切られたりして鍛えられたい金の卵は,是非,うちから学振PDの応募を出してください.

ダルシャナ,仏教論理学はもちろん,サンスクリット論書の範囲内ならば,仏教でも非仏教でも,大歓迎です.

たとえば,現在の指導院生・ポスドクで私が見ている範囲は,マンダナミシュラ,後期ヴェーダーンタ神学,一切智者批判,討論術と,見事にばらばらです.

公募があっても出さないことには何も始まりません.

限られたチャンスのある内に遠慮せず挑戦すべきです.

現在所属する指導教員などの紹介は不要です.(ただし、学振への書類に際しては、指導教員の所見が必要になります。)

直接,私宛にメールください.

sukhaduhkhe same kṛtvā lābhālābhau jayājayau/
tato yuddhāya yujyasva naivaṃ pāpam avāpsyasi//
楽と苦を等しくして,得と失を,勝と敗を
そうして,戦いに備えよ.このようであれば君が罪を得ることはないだろう.

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  1. 2017/06/27(火) 18:42:55|
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