Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

蜜蜂の学生

蜜蜂は,花から花へと移り,蜜を集めます.

同じように,学生は,異なる文献を教える様々な先生につくことで知識を蓄えていきます.

一人の先生にだけつくならば,学問の発展はないでしょう.

アビナヴァグプタは,多くの人に習うことで,その目を養っていきました.

ひとりの師だけにつくならば,はたしてその師が優れているのか劣っているのかすら分かりません.

多くの先生に習うことで,彼らの優劣も明らかになり,また,長所・短所,得意な分野・苦手な分野も分かるというものです.

学生は,悪しきを捨て,良いものだけをピックアップすれば良いのですから,多くの人に習うということは,単に知識を集積するだけでなく,そのような相対化の視点を養うためにも重要です.




大学の先生にも二種類があります.

ひとつは,自分の指導学生が,他の先生に習うことを良しとする人.

もう一つは,自分の指導学生が,他の先生に習うことを嫌う人.(学生に全く無関心な先生は除きます.)

なぜ他の先生に習うことを嫌うのでしょうか.

私が思うに,自分が相対化されるのが怖いからでしょう.

A先生と対等でありうるB先生に習うことで,学生Xは,B先生の相対的な視点を手に入れることになります.

学生XがA先生に対して持っていた盲信・崇拝はそこで失われてしまうことになります.

「尊敬する人は誰ですか?」

という問に対して,家族以外を余り知らないうちは,「お父さん」「お母さん」と答えるのと同じようなものです.

世界の広がりを知らなければ,限られた世界の中でベストを選ぶしかありません.

そして,その世界が一つの大学の中だけに限られていれば,当然,「うちの先生が一番」ということになってしまいます.

しかし,現実には,そのようなことはありません.

ひとりの先生が身に付けることのできる知識,教えることのできる内容には限りが有ります.

論理学についてはA先生,文法学についてはB先生,聖典解釈学ならC先生,というように,人には得手不得手があります.

ひとりの人が全てをカヴァーすることはできません.

また,先生によって,取り組み方・教え方も様々です.

一つの方法・知識だけを伝えることは,生存競争においても不利になります.

引き出しに様々なオプションのあることが,今後の生き残りのためには有利です.

写本にこだわる人もいれば,先行用例を調べるのが好きな人もいるでしょう,また,哲学的考察の深みに沈潜するのが好きな人もいるかもしれません.

文献への向かい方は人それぞれ,十人十色です.

したがって,学生は,まだ若く吸収力のあるうちに(そして恥をかいても気にならない年齢のうちに),多くの人に学ぶことが重要になります.

年を取ると,人前で恥をかくことが難しくなってしまいます.

学部生の前で恥をかくのは院生には難しいものです.

まして,先生ともなってしまうと,読書会で自分の無知をさらすなどというのは,なかなか難しいものです.(しかし,新しい分野を学ぼうとすれば,誰でも最初は初学者であり「学部生」みたいなものです.)




昨今は,経費の関係で,大学における非常勤のコマ数がどんどん削られています.

どんなに所属教員が優れていようと,ひとりの先生が教えられることには限りがあります.

また,既に述べたように,異なるスタイル,さらには,生き様まで含めて,学生は相対化の視点を手に入れることが必要です.

いわば,先生についての「教相判釈」を確立することで,学生独自の視点というものが培われていきます.

相対化による独自視座の獲得.

三角測量のように,未知なるものの高さを知るには,既知の二点が必要です.

「二師に見えず」「他の先生に習うなどとんでもない」と考えている先生は,学生の機会を奪っていることになります.

人間というのは,徒党を組み,派閥を作りやすいものです.(Cf. 部派分裂)

そして,派閥というのは,他者の排除を本質とします.

ひとつの研究室に二人の先生がいると,A先生の学生とB先生の学生とで分裂が生じることがあります.

A先生とB先生との仲が悪ければ,ますますそのような傾向が助長されることになります.

ひとつの研究室に4人も教授がいるとなると,それぞれの先生毎に「A組」「B組」「C組」「D組」などと派閥分裂が起こることも考えられるでしょう.

このような分裂に意味はありません.

学生はできるだけ多くの先生から学ぶべきであり,その機会を活かすべきです.

また,大学の中に留まらず,機会があれば,国内外の他大学で学ぶよう自分を仕向けるべきです.

一箇所のぬるま湯に安穏と浸かるのは楽です.逆に,外の荒波に身をさらすのは疲れますし,慣れない分野で恥をかく危険があります.

しかし,自分の感じる抵抗が多いということは,着実に学び,成長している,ということの証左でもあります.

金と時間と機会のある内に,外に出て揉まれるべきです.

また,大学としては,そのような機会をできるだけ多く提供することが必要です.

既に述べたように,「所属教員が全部教えれば良い」という考え方は間違っています.

一人が全部教えるならば,学問の発展ということはありえないからです.

学生は,異なる複数人から多くのものを学びます.

コンビネーションの多彩さこそが,脳の中のシナプス連合の多様さを作り,その人独自のカラーを生み出すことになるからです.

非常勤の削減は,知のモノクロ化へとつながります.

「ひとりの師から学べば良い」という単為生殖では,時代の環境変化にいずれ耐えられず滅びてしまうことになるでしょう.

結局の所,人を育てるには金も時間も手間もかかる,ということです.

金を削って効率化を進めれば,数年後,数十年後に,データの数字が悪くなるのは至極当然です.

非常勤を削って良いことなんて,何もないでしょう.

昨今は,大学内の金の融通が以前よりも縛りが緩くなったので,寄付金からでも非常勤のコマ数に回すことは可能なはずです.

まだ,そのような方策をしている研究室は見たことはありませんし,そのような奇特な御仁も見たことはありませんが.

わずかに,企業の側からの寄付講座が見られるのみです.

たとえば文学部では既に,朝日新聞からの寄付非常勤枠(金ではなく講師の派遣)があります.

ひとりの教授を雇う寄付講座といった大がかりな寄付までいかなくとも,「寄付非常勤」というようなことも,今後は考えるべきでしょう.

これなら,半期15回分の非常勤を雇う数十万円の寄付があれば成立するはずです.

また,京大では,白眉や学振のPDが学内非常勤のような形で非常勤枠を担当しています.(学内非常勤なので金はかかりません.)

九大印哲でも,今年から,学振PDに非常勤を担当して貰うことになりました.(九大文学部には前例がなかったので少し手続きに手間取りましたが.)

さて,箱崎キャンパスから伊都キャンパスへの2018年夏の引っ越し,誰かが昔に垂れ流したヒ素処理に予想外の支出がかさんだせいなのか否かはしりませんが,費用も満足に出ないようで,引っ越しの前段階の書籍等の箱詰めは全て自分たちでやることになるようです.

考えただけで腰痛がしてきます.

金はなくとも工夫はできる.

「おしんの精神」で凌いでいくしかないでしょう.

足を動かす水鳥と同じ,外からは優雅に見える「世界レベルの研究水準」の水面下は,こんなものです.
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  1. 2017/07/04(火) 19:35:12|
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