Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

katarat?

複数ある異読のいずれを選ぶかは,もっとも神経を使うところです.

もちろん,異読の全てを正確に記録するという準備作業があってこそ成立する高度な作業です.

よくあるインドの校訂(?)本では,異読表など,ほとんど付いてませんから,このような高度な楽しみは端から奪われてしまっています.

残念なことです.

テクストは,実際には,様々な可能性に開かれており,読みの可能性の程度も,その都度異なります.

90%こっちがオリジナルだ,という読みもあれば,五分五分の良い勝負で,どちらを選んでもいいよな,と迷わせるものも多々あります.

迷わせる異読のいずれかを裁定するのに頼りとなるのが,著者の用例や,著者に先行する,著者自身が親しんだ作品の用例.

さらには,その著者に大いに学んだ後代の人(同地方であることが分かれば尚よし)の用例です.

まずは,著者の著作を全検索して,似たような用例,ヒントになる用例を探します.

あれこれと検索の仕方を工夫しながら何かヒントになるものはないかと探します.

これで,かなりの問題は解決します.

一人の著者における語の使われ方,セットになる表現の仕方,というものには一貫したものがあるからです.

samという接頭辞が付いているのか付いていないのか,こんな細かい違いは,いくら辞書を見ても解決しません.

辞書的な意味は大して変わらないからです.

著者の用例と彼に近い用例だけが頼りです.

にしても,インド西北辺境カシミールのシャーラダー文字写本と,インド南端のグランタ・マラヤーラム文字写本が拮抗する良い読みを提供してくれるというのは,いつもながら,面白い現象です.

中インドのデーヴァナーガリー文字写本が全然頼りにならない,というか間違いだらけでむしろ邪魔なのは,いったい,どういうことなんでしょう.

数百年前の馬鹿な書写生を誰かお仕置きして欲しいものです.

良い仕事を残す,一定の水準を保つ,ということを心にとめない無知無恥の輩はいつの時代も変わらず存在するようです.

その尻ぬぐいを,数百年後の今,インドを遠く離れた日本でさせられています.

かなり人迷惑な話です.

何の因果か,前世を見ることのできる(あるいは現在の実存在を通じてその因果線上をたどって過去存在の状態を間接的に知ることのできる)一切智者にその因縁を語って欲しいものです.

或いはアガスティヤの葉に何か書いてあるのかも知れませんが,今度は,そのアガスティヤの葉の文章を校訂したくなるかもしれません.
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  1. 2017/07/16(日) 23:11:52|
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