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Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

自内証

ネットに落ちてました.

http://www.res.lab.u-ryukyu.ac.jp/assets/shida_oral.pdf

さすが志田さん,マイルドに真綿に包みながらも,あれこれと,いいこと(つまり真実を)言ってます.

ついでに少しばかりの(あまり公然とは言ってはいけないかもしれない)本音も漏らしています.

私の個人的な意見として、シンポジウムの主催は充実感・達成感がありますし、写真やポスターの見栄えはいいんですけれども、専門の近い研究者同士が数人だけ集まったような一見地味な読書研究会の方が、研究成果に直結している印象があります。もちろん、限りのある予算を配分いただいているわけですから、リサーチグループとして成果の公開は義務的だと思いますが、とはいえ、一見地味に見える研究でも評価する軸があるといいなと思うことがあります。



まあ,そういうことです.

実際問題,なにが本当にためになるのか,というのは,現場の当人が一番わかるわけです.

一人で読んでいる,二人で読んでいる,三人で読んでいる,そんなときが至福であり,またもっとも生産的であるのは,我々の実感するところであり,その実感を否定することは他人にはできません.

なぜならば,それは,自内証だからです.

他人がとやかく言って否定できるものではそもそもないのです.

世の中の風向きがどうなろうと,yathaa tathaa,サンスクリットを地味に読んでいきたいものです.

結局それが一番有益なのですから.

幸い,昨日も,ウラディーミルと,Jの難解な議論を2時間弱読んで頭が真っ白になって燃え尽きた後に,眞鍋とMの神学文献で,これまた二時間弱.

疲れ果てて最後のほうになったときに,

abhivyaaptaav aakaara.h

というのが出てきて,なんやなんや,「形象」が何?

と不明でしたが,あれこれ検索かけたら,どうやら,abhivyaaptiとmaryaadaaの対立で,aaの意味に二つあることが分かりました.

そこまで至ってようやく気が付いたのは,aakaaraは「形象」ではなく,aa音のことでした.

ここでの「Xまで」の「まで」は,Xを含む「まで」であって,Xを含まない「まで」ではない,という趣旨でした.

つまり,maryaadaaではなくabhivyaaptiのほうを意味する"aa"だ,ということです.

「まで」がここで意味するのは,含まないほうの境界ではなく,含むほうの境界だということです.

気が付いてしまえば,なんだ,という感じです.

斉藤さんが傍にいれば,たぶん,悩む必要すらなかったんでしょうが.

あるいは,エディションが最初から綺麗に区切ってくれていれば,もっと早くに気が付いたと思いますが,前後の文とずらずらとつながっていると,案外,わからないものです.

やはり,ちゃんとしたエディションは重要.

ダンダの不適切な校訂は,句読点の適当な日本語と同じです.

内容にたどり着くまでに無駄に時間がとられます.

本当にちゃんとした親切校訂本なら,パーニニなどの文法学の参照先まで引いてくれてるところでしょう.

ともあれ,4時間も走り終えて疲れ切った後では,文法学の軽いジャブでも,結構,効きます.

不覚にも,軽く,aakaaraの擬態に,ダウンを取られてしまいました.

パソコン内にあるe-textのグレップと,外のネットにあるe-textのグーグル検索という二人のセコンドのおかげで,前後不覚に陥らずに済みましたが.

ラリーもハルも言ってますが,ここ最近のグーグルのサンスクリット文献検索能力はかなりのものがあるので,大いに助かります.

ローマ字のあれこれの転写方式で検索かけてみたり,あるいは,デーヴァナーガリーで検索かけてみたりと,工夫は必要ですが.

ともあれ,つかえるものはつかわしていただきます.ありがたく.合掌.南無グーグル如来アーバーサ.(かなりの全知者です.ただし,普通とは順番が逆で,所知障を取り除いているけれども,貪という煩悩障は取り除いてない気はします.)
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  1. 2019/04/20(土) 10:51:10|
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