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Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

農法と涵養


不幸というべきか、私自身の専門分野経験からは,大学で,体系的な教えを受けたことはわずかかもしれない.

唯一,非常勤の先生によるヒンディー語だけは,きわめて体系的なプログラムになっていた.

外大で何年も教育を積んだ先生方である,当然,最も効率のよい教育のシステムができあがっているし,長年の経験があるので,教育者としてすぐれたものがあるのは当然である.

初級・中級・上級と,階段を順に登っていくことができた.

ありがたいことである.

ひるがえって,サンスクリットは実に乱暴な教育であった(と言わざるを得ない).

文法の初級がさっさとおわると,あとは,習うより慣れろの研究者の世界である.

サンスクリットの場合,そもそも書かれている文献が,専門家が専門家に向けて書いたものが多いので,それは致し方ないという側面があるのは否めない.

それぞれの専門分野で慣れるしかないのが実情であるし,それが,実際には最短である.(いつまで文法をやっていても,また,チーチーぱっぱの易しい撰文でいくら練習しても,本物と対決したときには全く歯が立たないからである.)

よほどの覚悟がないと続けられない言語である.

私の場合,卒業論文がないのは幸いであった.

ひとまず,特別演習と称して,アビダルマ,ヴェーダーンタ,ギーターと,1500mほどの三つの山で自主訓練ができる.

その後,修士論文.

こちらは,いきなり,3776mの山を「はい、のぼれ」と言われるようなものである.

何をどうしたらよいのか,さっぱり分からなかったが,とりあえず,見よう見まねで,あれこれと自分で参考になる先行研究を探してくるという作業から始まる.

装備の準備からはじめて,全部,自分でいちからやっていた.

ミーマーンサーの先達などまわりにいないのだから仕方ない.

親切なガイドなしの単独登頂が最初から強制される.

そのために必要なサンスクリットの語学力は,ヒンディー語訳を通して身につけるしかなかった.

親切なマップが日本語ではないのだから他にやり様はない.

いわば,グーグルやグーグルマップで登頂に必要な情報を集めるのとおなじである.

自力自修.

大学から見れば,放任放牧.

当然,修論は2年で終わるわけもなく,研究室では,3年かかるのが当然視されていた.

何が幸いするか分からないが,ともあれ,自分で全部最初から自力でやる,という地力がついたのは確かである.

ひとの世話にならずに自分で研究を進めることのできる能力が「自立した研究者」の一つの条件であるとすれば,その構えだけは,博士に入るころにはできあがっていた.(もちろん,論文自体は,隙だらけだっただろうが.)

留学も,交換留学制度などではなく,自分でティルパティまで行って学長と対面して,直接に許可を貰ってくることになった.

途中で学長がかわったので,結局,留学前に二回,向こうまで行って話をすることになる.

昨今の制度の整った交換留学の話を聞くと,うらやましい限りである.

放任・放牧.

種をまいて,あとは,天水に任せるという農法である.

わたしだけでなく,わたしの後輩も,自力救済能力だけは長けている様子である.

自分でなんとかするしかないのだから,仕方ない.

おかげで,その後も,海外に行って高度を上げていくことに,さほど困難を感じなかった.

英語や写本の扱いに関しては,海外の先達にお世話になった.

山で出会った先輩登山者とでもいえばいいだろうか.

かれらと一緒に登る中で,英独風の研究の仕方についても身に着けていった.

知識・能力・態度という三つでいえば,自力の作業で身に着けたのは,自学自習の無限の学習ループの態度になるだろうか.

カイゼンによる学修回路のループである.

先に進む人達の背中を見ながら,必死についていった,という感じである.(幸い,彼らは,親切にも歩調をあわせてゆっくり進んでくれる教育者でもあった.)

研究室にある程度の人数がいるというのは,その意味で,非常に重要なことである.

先達のいない状況というのは,かなりの困難を生じる.

模範となるモデルがいることほど楽なことはない.

遠い先生よりも身近な先輩にモデルがいることのほうが,学ぶところが多いのは当然である.

助手がいない昨今の研究室状況というのは,その意味でも,ある種の教育上の困難を容易に生み出す環境と言えよう.

モデルとなる先輩が常にいる環境をなんとか保っていくことが一層大事になっている.

わたし自身は,自分の経験を(変な言い方になるが)「他山の石」として,天水農法などではなく,しっかりと育てる灌漑農業で進めている(つもりである).

どっちがいいのかは,時がたたないとわからないから,こればっかりは何がいいとはいえない.

すくなくとも,「ちゃんとやってます」くらいの言い訳にはなるだろう.

教員といえども,一緒に耕す中で,自分が学ぶ機会をみすみす失うことのないよう気を付けたいものである.
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  1. 2019/05/25(土) 21:46:31|
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