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Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

小川さやか著『「その日暮らし」の人類学』

フォーマルセクター
インフォーマルセクター

に関する従来の議論への氏の違和感を見ていると,なるほど,この構造は,

実体有dravyasat
世俗有sa.mv.rtisat

の二層と似ているという感がする.

普通の人は,sa.mv.rtisatレベルの認識を実体有dravyasatレベルに照らして「正しい」「間違っている」と断ずるであろうが,しかし,世俗有sa.mv.rtisatレベルは,そこでまわっているのだから,その視点で論じるべきである.

上に寄せて議論するのは的外れではないか,というのが件の違和感の正体であろう.

食い違いがないavisa.mvaadinとして世俗有sa.mv.rtisatレベルの言語知シャーブダを捉えたのはディグナーガであったが,それをプラマーナ全体へと広げたのはダルマキールティであった(cf .中須賀美幸の議論).

実体有dravyasatレベルから断ずるのではなく,むしろ,このダルマキールティのように,世俗有sa.mv.rtisatレベルから捉え直した方が有用ではないか,あるいは,ひょっとしたら事態を正確にとらえているのではないか,という気がする.

食い違いがないavisa.mvaadinでいいではないか,という気持ちである。

まあ,もちろん,ダルマキールティ自身は,従来の実体有dravyasat志向の思考も温存しながら,経量部的に,食い違いがないことavisa.mvaadaの実質内容について効果的作用arthakriyaa云々を言い出すのだが.

もちろん、唯識的には、実際的効用があるように「見え」れば、それでいいのである。

なお、法律的に非合法イリーガルだが道義的に合法か否かのlicit, illicitの区別も世俗有と通常の意味での錯誤の対象である非有の区別と平行的である。

上の世界から見れば一律に間違ってはいても、下の世界にも更なる「正誤」の区別はあるので、よくよく見てみる必要がある。

さらに言えば、道義的にも間違っているイリシットのほうが、世界の本質を捉えるには取っ掛かりとなるかもしれないというのが、瑜伽行派の戦略である。
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  1. 2019/08/19(月) 19:39:53|
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