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Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

kakka soyo



散逸したサンスクリット原典,その場合,それのチベット語訳を云々することになろう.

しかし,チベット訳からあれこれ想像しても一向に埒が明かない,という事例には事欠かない.

過去の論争の幾つかがすぐに思い浮かぶ.

Aさんがサンスクリットを想定しながらチベット訳を読んでも,サンスクリットを想定しないでチベットを読むようなBさんは,チベット語訳から適当な可能な読みを提案して無理筋を対抗案として提示.

もちろん,チベット語訳だけからでは,いろいろな可能性があるのは否めない.

たとえ,サンスクリット感覚的には,それは,自然ではないとは分かっていてもである.

結局,Aの主張にたいするBの対抗主張により,引き分けとなり,せっかくのAさんの主張も,あたかも間違った主張であるかのようになってしまう.

論争というのはそういうものであろう.

むかしから,ジャーティなどのテクニックが用いられたのも,負けそうになったら困るので,相手との引き分けに持ち込むためである.

というわけで,チベット語訳からだけあれこれと想像しても,結局,決定打のni"scayaとならないというのが悲しい定め.

なんだかんだと文句のつけようがあるのである.

ラトナーカラのPPUの原典が出てきてよかったし,また,ディグナーガのPS(V)が,PSTから相当復元できて何よりである.

原典を読めば決定的に分かることも,あれやこれやの可能性の隙間を残すチベット訳だけからは,どうにもこうにも隔靴掻痒.



ともあれ,原典にアクセスできる良い時代になったものである.

結局,ムニ・ジャンブーヴィジャヤジーのように,たとえチベット語だけからでも,後代の関連サンスクリットを参照したりしてサンスクリットを想定しながら読むならば,かなりの精度で内容理解は可能なのだ,ということは,あとから,復元原典と比較・採点して分かることである.

ディグナーガの場合,ダルマキールティに至ってシステムに変更が加えられているので,ディグナーガそれ自体を知ることがダルマキールティなどからは困難になっている.

偏向ガラスをかまされているようなものである.

まずはPSTなどに基づいて原典復元,そして,ジネーンドラの一部の偏向バイアスに注意しながら,原義を救い上げていく必要がある.

もちろん,ダルマキールティ以前のクマーリラによるディグナーガ解釈が,ディグナーガそのものの意図を知るのに助けとなるのは言うまでもない.

ダルマキールティよりもクマーリラのほうがディグナーガを理解するのに役に立つのである.

ここのところは,素人が陥りやすい罠である.

註釈を字義通り受け取り,そのまま信じるウブで素直な人(説一切ウブ)は,すこし,京の都あたりで,言外の意を掴む訓練をした方がいいだろう.

あるいは,シャーストラにおいても,アーナンダヴァルダナの言うがごときdhvaniを学ぶ必要があるかもしれない.

余韻や余白,作者の真の意図,それを読み込むことは,テクストに向かう楽しみのひとつである.

そして,それは,こちら側の間違った勝手な投射ではなく,向こうに根ざしたものでなければならない.

ダルマキールティいうところのvastu-bala-prav.rtta-anumaanaでなければならない.

そのために,様々な状況証拠を重ねる必要がある.

すべてを主体の投射と切り捨てる立場もまた,極端な説(いわば断辺)として斥けられるのである.

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  1. 2019/08/25(日) 10:15:29|
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